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好きなんだからしょうがない

リモートワーク26日目。

ずっと幼い頃寺村輝夫さんが書いた「ぼくは王さま」という児童書シリーズが大好きだった。「たまごやきが大好きで、わがままで、なまけもので、くいしんぼう。」という困った王さまが、周囲の人たちを振り回しながら毎回大騒動を巻き起こすお話なのだけど、どの号も表紙が外れてボロボロになるほど繰り返し開いては、読み返した。

児童書って、不思議だ。普通の小説は一度ストーリーを知ってしまったら、ほとんど読み返すことはないものだ。けれど児童書は、なぜか何度でも読みたくなる。ストーリーがとても象徴的に描かれていることが多い絵本は、年齢や、置かれた状況によって解釈がどんどん変化するものだから、繰り返し読みたくなるのは理解できる。聞き手や読者が、余白を自由にイメージできるのが絵本の魅力のひとつだ。

けれど、児童書というのは基本「読み聞かせ」を前提としていないから、「児童」が自分自身で理解できるようストーリーはとてもシンプルかつ、けっこう説明的に描かれていることが多かった気がする。ほとんどの場合、最近流行の「伏線の回収」とか複雑な仕掛けは設計されることなく、ひとつの小さなトピックを「起承転結」の段取りにきちんと則って順を追って説明していく感じだ。

つまり「絵本」「児童書」「ライトノベル」「小説」というような「物語を楽しむ本」の中では、一番「味」というか「深み」を演出するのが難しいジャンルということだ。そうか、なるほど。その制約条件は「何かを表現したい人」にとってはかなりハードルの高いものだろうし、小説家と絵本作家に比べると「知る人ぞ知る」という作家が多いのも理解できる。

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よくよく考えてみたら大好きだった「王さまシリーズ」、ほとんどストーリーを思い出せない。「ぐりとぐらのでっかいカステラ」とか「ねないこだれだの暗闇に光る目玉」とかは、こんなにちゃんと覚えてるのに。「風にのる六年生」とか「おかあさんのつうしんぼ」とか、子どもの日常を描いた児童文学も大好きで「王さま」と同じくらい読み返していたけれど、それも全然覚えていない。

どんなキャラ設定だったっけ? どんな展開だったっけ?

そうか、もしかしたらその感じこそが児童書の一番の魅力なのかもしれない。本を閉じてしばらくすると、内容をすっかり忘れてしまうのだ。だから新鮮な気持ちで、何度でも繰り返し楽しめるんだね。「ぼくは王さま」を読んだ児童評論家の藤田圭雄さんが「この作品は不思議だ。読むと面白いが、閉じると忘れてしまう。しかしまた開くと、面白さが沸いてくる」と語っていたそうだが、まさにその通りだと思う。40年近くたった今も「その本を大好きだった気持ち」はこんなにはっきり覚えているのに、内容はすっかり忘れている。「どうしてなのかよくわからないけど、好きなんだからしょうがない」。つまり、そういうこと。最高じゃん、それ。

ひとつだけ思い出した口ぐせ。

「わしは世界じゅうでいちばんえらい王さまだぞ」

ああ、僕もいつか、そんな物語を書いてみたい。


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