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ショパン国際ピアノコンクール2021をきく~オンガクとは何か。

 今回は筆者が10代前半の全てを費やした「ショパンのオンガク」から考察し、オンガクとは何かを問う場です。コンクールやコンテスタントの批評やインタビュー等はワルシャワのChopin Institute または国内ピティナ広報部等の専門誌をご覧ください。ここではあくまで個人的体験を踏まえて、コロナ禍で一年の延期を経て開催されたショパン国際ピアノコンクールから「オンガクとは何か」を問い、考えていきたいと思います。
   ちなみに今回のコンクールは7月の予備予選、そして一次予選からはほぼ全コンテスタントをライブで視聴し、最終的に13名を選び出しました。その中の9名がファイナリスト、上位入賞者8名は全員が予想通り(ただし順位は別)となりましたので審査基準とほぼブレが無かったと感じています。もっと言えば、私が求めていたショパンを聴けた至福の時間でした。
 どんなことに注目して演奏を聴いていたかも併せてご紹介できたらと思います。ちなみにコンクールの事前資料等はなく、あくまで個人的な「耳」、10代の頃に考えた「ショパン論」からの論考ですのであらかじめご了承ください。

ショパンの心はマズルカにあり

 まず個人的なピアノ歴をご紹介しますと、昭和40年代の3歳から趣味でピアノをはじめ当時としては年齢的にギリギリだった10歳で専門教育に移りました。そして11歳の時にショパンで出場した現存する某コンクールで最年長部門1位を頂き、そこからショパン漬けの日々が始まります。手が大きくて柔らかかったこと、戦後ピアノ教育の全盛期と重なったこともあり、精神的に身の丈に合ったとは言い難いバラードやスケルツォ等のショパンの大曲が与えられ、その練習で生活のほとんどが埋め尽くされていました。
 このプロセスの大きな問題点は、それまでにマズルカを弾いたことも聴いたこともなかったということです。高度経済成長期とは言え戦後の空気も社会に残っていましたので、ショパンの「哀しみ」は感じ取ることができました。しかしポーランド民謡のマズルカを知ることは異文化理解の領域ですから、海外に出る機会が無くインターネットも無かった当時の日本のクラシックピアノ教育には、根本的に環境の限界があったと思います。
 今回のコンクールを視聴して改めて思いましたが、ショパンのオンガクの心はマズルカにあります。彼の楽曲のすべてにマズルカのオンガクが染み込んでいる。難曲が弾ける子どもは大人たちを逸らせますが、今回1位を受賞したBruceや2位の反田恭平さんがスポーツや他の趣味を経験した12歳や8歳から専門教育に移ったことを考えると、現代のショパニストを目指す場合は10歳まではマズルカを、同時にポーランドの歴史や文化に触れる機会を、何よりリズム感を養う運動神経をスポーツやダンスから学んだ方が結果的にショパンのオンガクに近づけるだろうと思いました。
 反田さんは地元ラジオ局のインタビューで「盆踊り」との比較から日本人にとってマズルカを弾くことの難しさを語っていましたが、音楽史的にマズルカのような「3拍子」は半島から海を越えませんでしたので、まさに日本人の遺伝子にとっては難しいオンガクとも言えます。実際に同じ三拍子のワルツのように聞こえてしまう人もいましたし、そこが予選を突破できるかどうかのひとつの鍵だったとも思います。
 結局、昭和の子どもは本物のマズルカを聴く機会もないままショパンから離れていきました。それはショパンのオンガクの真髄に触れなかったということなので、今考えると非常にもったいないことです。作品を弾きこなせることと、オンガクを理解するということは別モノです。両親や先生をはじめ周囲の期待を裏切るかたちになった自分は、自由にピアノが弾ける立場になったはずでしたが、深刻な挫折感も残ってしまいました。ショパンのオンガクへの関わり方を誤ったせいで自分の中のオンガクも傷つけてしまったのだと思います。そこから結果的に40年近くショパンに近づくことさえ出来なくなっていました。
 しかし自分でも興味深いと思うのは、門下を出た後も先生との手紙のやりとりは続き、サウンドスケープの概念も知らずに「ショパンは天井の高い石造りの空間でこの作品を書いたのでは」といった考察を送っていたことです。ブーニンの登場で80年代以降のショパンのオンガクには人間性すら超えた完璧さや力強さやスピード感が求められ、自分が考えるショパンとはますますかけ離れていくような印象がありました。そしていつしか興味も無くなっていました。実は90年代初めにヤマハの『ピアノの本』編集部に所属していましたので、国際コンクールに勝つための華やかなピアノの音が、バブル時代の中で開発されていた経過を知っています。デジタル音源やピアノも登場し、より透明度の高い硬質な音が好まれていきました。
 だからこそ今回のコンクールがエポックメイキングだと感じたのは、6位上位入賞者の中で「勝つための演奏や音」を選んだピアニストがひとりもいなかったということです。1位のBruce Liu(カナダ)と3位のMartin Garcia Garcia(コンチェルト賞/スペイン)、5位のLeonora Armellini(イタリア)はイタリアのFazioli、2位のAlexander Gadjiev(ソナタ賞/イタリア・スロヴェニア)と6位のJJ Jun Li Bui(カナダ)はカワイの最高機種Shigeru Kawai、2位の反田恭平さん、4位の小林愛実さん、Yakub Kuzlik(マズルカ賞/ポーランド)がスタインウェイ479を選びました。
 弾く人の個性が最も出るのはスタインウェイですのでコンクール向きだとは思いますが、イタリアと日本の「職人魂」が結集されたFazioliとKawaiの音がコンテスタントたちに選ばれたことは非常に印象的でした。人の手仕事が感じられるアナログならではの血の通った音がするピアノの個性は、人と人が離れ離れになったコロナ時代だからこそ求められた「人間の存在」そのものだったように感じました。そのピアノの鍵盤に対して、たとえ大音量であっても感情や力をコントロールした丁寧で優しいタッチ、真摯に対話するような演奏が選ばれていきました。
 突然始まった世界的なコロナ禍でコンサートが中止され、世界中のピアニストたちは「外向き」の演奏をする機会が無くなりました。家の中でひとりピアノに向き合い、ショパンのみならず自身と対話する時間が増えたと思います。その結果、今回のコンクールでは自分自身のオンガク性を誇示するのではなく、ショパンのオンガクやピアノに対する謙虚さを持つ演奏が提示され、また支持されました。一年の延期は不条理な境遇を受け入れたショパンの心情に寄り添い、ピアニストとしてのみならず人間的にも成長したピアニズムを生みました。ショパンのオンガクと真摯に対話し、世界を力で圧倒するのではなく、響き合えたピアニストたちが上位入賞したのです。反田さんの「この1年誰もいない場でピアノを弾くことがほとんどだったので、会場の雑音さえもありがたく感じた」と語っていた言葉に、ピアニストたちが向き合っていた孤独の深さ、また耳の変化が伺えました。
 この変化はピアニストたちだけでなく審査員や聴衆にも表れていたのだと思います。今回Youtubeでは予選から全ての無料配信が決断されましたが、これこそが「ピアノ界の最高権威」だったショパンコンクールの歴史的転換点でした。ドキュメンタリズムで舞台袖や楽屋の演奏者の緊張感や達成感を伝え、合間にはスタッフや関係者による和やかな舞台裏トーク、また演奏者の呼吸や歌声、会場の雑音も含めた配信音源からはコンクールの全体像、すなはち「サウンドスケープ(響き合う世界)」を感じ取ることができました。今回のコンクールが単にピアニストたちの腕自慢や競争の場ではなく、終わりの見えないコロナ禍に世界中からポーランドに集い、共にオンガクできることの喜びの中で「疫病の時代が求めるショパンのオンガク像、ピアニスト像」を提示する場だったということです。この点については後半でもう少し詳しく考察していきます。
 また今回は20世紀の巨匠たちが「自分の色」に染めたショパンを、もう一度ショパン本来の色に戻すようなオンガク性が結果的に選ばれました。特に「マズルカの心」の理解度の深さ、表現力の高さ、そして威圧感ではなく深みのある音量、ピアニッシモや余白が美しい演奏が選ばれていきました。それはショパンの弱さや悲しみだけでなく、朗らかさや軽快さ、つまりは絶望から希望までを描き、コロナ時代と響き合うようなピアニズムでした。
 ですから上位8名が提示したショパン像は、ショパンのオンガクに8つの方向から光を当てたということで、本来は甲乙つけ難いものでした。実際に順位は難航したようで公表された審査結果の点数では2位の反田さん、ガジェヴ、3位のガルシア・ガルシアは同点だったと報道されていましたし、点数にはあまり意味がないこともわかってきます。ピアニスト本人の個性というよりは「提示したショパンのオンガク」の多様性がいずれも深いものだったということです。
 ちなみに個人的にショパンのオンガクに最も寄り添っていたのは小林愛実さんの演奏だと思いました。彼女はショパンの文献や手紙を研究し、本来ならば前回のような勢いのあるコンチェルトで押し切ることもできたファイナルを、大きな会場での演奏を好まなかったという「ショパンらしい」デリケートなオンガクで作品に光を当てました。3次予選の24の前奏曲は会場全体を深い静寂の「祈り」に包み込む素晴らしいものでした。ショパンの「小さなオンガク」で4位に入賞したこと自体、大変な実力の持ち主だと思います。
 ちなみに1位のBruceのショパンには朗らかさと若々しさ、何よりマズルカに繊細かつ躍動的な身体性や高揚感がありました。他の演奏者の個性をバランスよく併せ持った「今回の正解」のような好ましい存在です。さらに受賞者全員に共通していたのは「ショパンのオンガク」と深く対話する態度です。
 このようなコンテスタントたちの演奏を連日10時間、滝の修行のように浴びたことで、自分の中でずっと傷ついていたショパンが癒されていくような感覚を味わっていました。それは大袈裟ではなく「生きていてよかった」と思える時間でした。

ショパンのオンガクとは何か、何がショパンか。  

 さて、前置きが大変長くなってしまいましたが、それではショパンのオンガクとは何か。ショパンを弾くとは、何がショパンかという問いについて考えてみたいと思います。
 まず今回のコンクールで改めて思ったのは、好き嫌いに関わらず、ピアノを自分の楽器に選んだ人間にとってショパンは避けて通れないということでした。自分の中にも無意識のうちにショパンはずっと息づいていました。なぜならショパンのオンガクには、ここを中心にした過去と未来のピアノ/鍵盤音楽の全てが入っているからです。これはもう観音様の手のひらのようなもの。ピアノを弾く誰ひとりショパンのオンガクから逃げられないのだと感じました。ですから、ケージのプリペアド・ピアノや現代音楽の内部奏法はショパンから逃れるために発明された奏法と言ってもよいくらいです。しかし余白を提示した『4分33秒』では、ふたたびショパンのオンガクに近づいたとも言えます。
 ショパンは時として、音の洪水の中に突然現れる休符で「余白」の美を描いています。キャンパスを絵の具で埋め尽くすように、楽譜に音を詰め込んだオンガクを作ったからこそ、不意に訪れる音のない時間、その瞬間に生まれる「無音のオンガク」の美しさに気づいたのかもしれません。さらにはノイズと調和、平和と静寂、リズムと旋律、感情の内と外、民謡、標題音楽と絶対音楽、揺れ動く時代の雰囲気やサウンドスケープも余さず描いています。ショパン以降はクラシックだけでなく、ジャズやロックや歌謡曲や演歌やミニマルミュージック、映画音楽、、21世紀に現存するすべてのピアノ曲にショパンを見つけ出すことができるのです。
  だから「ピアノを弾くことは、ショパンを弾くこと」と言っても過言ではないのだと思います。ショパン国際ピアノコンクールがピアニストの最高峰と謳われる由縁はここにあります。世界に求められるショパン像は、その時代を象徴するクラシックのピアニズムです。そして今回のように疫病の時代を生きる世界が欲したのが受賞者たちのオンガク/音、そして人間性でした。
 20世紀のような「闘うためのショパン」を弾く時代は完全に終わったのでしょうか。コロナ収束と共にふたたび力強く完璧なショパンが戻ってくるかは未知数です。既に「未来のショパン」は今回の受賞を逃した若いピアニストたちの中に萌芽していたとも言えます。例えばロシアの高校生Eva Gevorgyan(17歳)、中国の16歳Hao Lao、日本の進藤優実さん(19歳)は次回も登場するのではないかと思っています。そして老成することなく成長してほしいと感じたのが実力派の牛田智大さん(21歳)。今回のガジェヴのように「外見がすっかり変わってしまうほどの内面的な成長」を期待したいと思います。
 彼らはコロナ後の世界にどんなショパンを提示してくれるのでしょう。次世代のピアニストたちがここから4年間、世界とどのように対峙し響き合っていくのか。彼らの生き方が次世代のショパンのオンガクを決めるのです。

可視化された「ミュージッキング」

 今回の事務局が予選から受賞者コンサートまで「全演奏の無料配信」を決意した時点で、コンクールのみならずクラシック音楽の歴史は大きく動いたのだと思います。私のようにYoutubeが勧めたので何となく覗いてみて、すっかりその世界に魅了された人たちも少なからずいたと思います。予選合間の「ショパントーク」をはじめ、演奏前後のコンテスタントやスタッフたちの楽屋裏を写すドキュメンタリズム、「ミュージッキング」の視座から21世紀に相応しい新しいコンクールのかたちを提示しようとする意志が感じられました。歴史的パラダイムシフトを目撃することが出来て、本当に嬉しかったですし何より「希望」を感じました。
 中でも「ショパントーク」は、昨年の開催が延期になり「リスケ」に追われた事務局スタッフの苦労話や、Youtube配信担当者たちの狙い、音楽雑誌の編集者たちの視点、過去の受賞者の声、そして出場中のコンテスタントたちのリアルな感想など、毎回多彩なゲストと共に充実した内容で、コンクールに多角的な光を当て、また俯瞰的な視点を与えていたと思います。何より和やかな雰囲気の中で当事者たちの「生の声」が聴ける意義は大きく、「ピアノコンクールの最高峰」として、特に日本では必要以上に権威的で気高いベールに包まれてしまった”ショパコン”の印象を大きく変えたと思います。コンクールの心もマズルカ(ポーランド民謡)にあり。
 もちろんショパンしか弾けない過酷な場に挑戦するピアニストたちの存在が無くてはならないコンクールですが、彼らだけでは成り立たないのも事実です。ピアニストたちと同世代を生きる若いスタッフ(主に女性たち)が運営する場はとても興味深く、特に配信スタッフたちの話からは、文脈が違うと思われたYoutuber角野隼斗さんの参加も、インターネット世代のポーランドの若者たちにも違和感無く受け入れられていることがわかりました。今後ますますスタッフをはじめ聴衆にデジタル・ネイティブが増えることで、求められるショパンのオンガクは変わっていくのかもしれません。既に角野さんの存在が次世代の”ショパン”そのものかもしれないとも思いますし、そのことはショパニストを目指す他のコンテスタントも意識しただろうと思います。しかしだからこそ、究極の不要不急ともいえるステージに膨大な時間をかけて臨んでくるクラシック・ピアニストたちの存在意義もあらためて感じました。一期一会の時間に全身全霊を注ぐ人間存在の美しさは理屈を抜きに胸に響き、生きる希望を与えてくれました。個人的には、彼らの思慮深い考察や真摯な人間性、何より才能だけでなく努力に基づいたオンガクが正当に評価される世界が続くことを祈っています。
 あらためてコンクールの全コンテスタントたち、そしてショパン協会のご尽力に心からの敬意とお礼を申し上げます。

ピアノの音とは何か

 「ピアノ/ピアニストは音楽の王様」と言われた時代は遠く、ヴィルトーゾとして君臨するのではなく、世界と調和すること、響き合うことが21世紀のピアニストには求められていくはずです。物理的に空間を占めてしまう大きな楽器を奏でるピアニストにこそ、他者や社会とのバランスが取れた関係性が必要になるでしょう。今回2位の反田さん、4位の小林さんが受賞後に揃って「ピアノよりも普通の生活が大切」と話していたことが印象的でした。厳しい現実として、彼らほどの技術を身に着けるためには全てを犠牲にした練習時間が求められがちですが、そこまでしても天才の域には到達できない高みの世界があるのも現実です。しかしそれは決して敗北でも挫折でもないのです。自分のオンガクを大切に生きていくことは、人生を間違いなく豊かにしてくれます。誰よりもピアノと向き合った自分に「鑑賞者としての視点や言語」を身に着けて批評の世界を底上げする役割もあるでしょう。世界でソリストとして活躍できる人はほんの一握りですし、先頭を走り続ける彼らには彼らの苦しみがあります。「ピアノが弾ける私」が社会とどのように折り合いをつけていくかを考えること、ピアノと言葉(本)をつなげること、ピアノ嫌いをつくらない教育を模索すること、ピアノを演奏することだけではない世界の関わり方を思考し、「オンガクする私」を丁寧に育むことが、もしかしたらピアニストとして成功すること以上に「よく生きること」だとも言えます。何より人生は長いのです。
 今回のファイナルの協奏曲を弾く誰もが、世界と調和することの喜びにあふれた演奏でした。そこには他のコンテスタントと「闘っていた」人は誰もいませんでした。彼らは自分が信じるショパン、そしてオーケストラと対話していました。それが可能だったのは、それぞれのピアニストの個性を最大限に引き出した素晴らしく民主的な指揮者(アンドレイ・ボレイコ氏)の存在があったことも確かです。彼が高圧的で威厳に満ちた態度だったら、コンクールの意味さえコロナ以前に戻ってしまったかもしれません。今回のファイナルはコンクールの緊張感ではなく、「今この瞬間」を生きオンガクできることの喜びが伝わるような素晴らしい時間でした。反田さんが「まさに夢が叶い続けていた40分間だった」と表現していたのが印象的でした。

  よく「ピアノは叩けば誰でも音が出る」と言われますが、それは正しくもあり、間違ってもいます。アナログのピアノで「良い音」を出すことは実はとても難しいからです。現代のピアノは鍵盤が軽くなっていますので大きな音は体重をかければある程度出せますが、簡単に鳴ってしまうからこそ特に芯のあるピアニッシモが難しい。その小さな音で広い会場を響かせ「きく人」の心を震わせる演奏には相当の音楽性が求められます。
 では、「良い音」とは何でしょう。その基準は時代によって変化すると思います。音の印象には新旧があり、そして好み(時代の耳)も反映される。ここ20年くらいはデジタルピアノの台頭で、爽やかで透明感のある濁りのない音が好まれた印象があります。高解像度デジタル写真のような音と言えばイメージつきやすいでしょうか。
 それがここ数年、アナログならではの「濁り」も含めたアコースティックな音、打鍵やペダルの雑音までを録音する若いピアニストがジャンルを越えて増えてきました。デジタルネイティブにとってはむしろ「音の雑味」は新鮮に聞こえるのかもしれません。今回の受賞者たちも「きくこと」や「音づくり」の大切さに言及している人が目立ちました。
 ピアノの音はピアニストそのものでもあります。その音に到達するためにどれだけ思考を深められたか、時間を費やしたか、何より「我」を捨てられたか。禅問答のようですが「自分の音」とはエゴではなく、むしろ自分を捨てた先にしか出せない音なのです。だからそのピアニストがどんなオンガクを奏でるのかは、実は最初の一音でわかってしまう。どんなにテクニックがあっても、外見が魅力的でも、音響加工ができない「素の音」に魅力がない演奏家はクラシックには不向きです。それは実際にワルシャワのホールで聴いた方が顕著だったと思いますが、ネット配信でも十分に「良い音」は伝わるということは新しい発見でした。また録画とライブ配信で受け止める方の「耳」の集中度が全く変わることも実感しました。
 今回のファイナリストたちは、もちろんいつの時代でもピアニストになれる実力の持ち主ですが、例えば硬質で力強いテクニカルな演奏や音が好まれた「イケイケな時代」だったら、もしかしたら結果が違っていた可能性もあります。今回の予選では中国、台湾でテクニックに秀でた演奏者が目立ちましたが最終的に彼らの音は求められませんでした。技術の上に哲学的な思考が必要だと思いました。三次予選の演奏でソナタ賞を受賞したガジェヴが奏でた「葬送」は、世界中で大勢の死者を出した疫病時代に向けられた「追悼の音」でした。彼はヨガの瞑想をしたり、哲学や心理学の本をたくさん読んだと話していました。
 今回はたまたま自分が求めたショパンのオンガクや音が評価されたからこそ、このコンクールを最後まで楽しめたのだと思っています。オンガクとは時代と響き合うものであり、水のように流れていくものでもあります。自分が望んでいるショパンが予選を通過しなくなる時代がこの先ないとは限りません。だからこそ一期一会の出会いが尊いと感じました。
  
 困難の時代も逞しく生き抜き、新陳代謝を遂げるクラシック音楽の底力。演奏者が心を込めた「良い音」は理屈を越えて不思議と琴線に触れるものです。前述のようにピアノの音は時代を映し出しますが、それは時代に合った音を出すこととも少し違います。自分の音/オンガクを「きく耳」をもったピアニストがブレない軸をつくり、時代と「響き合わせる」ことで生まれていくものです。それには常にオンガクとは何かを考え、ピアノを通して時代や楽器や作品と対話する姿勢を忘れないことが大切なのだと思いました。
 「良い音」とは「よく生きるための音」です。ピアニストたちが全身全霊で、時を越えて紡ぐオンガクです。それは一方向ではなく「良い音をきく耳」との双方向の関係性から生まれるものです。
 だからこそ、この世界から「きく耳」が失われないことを願ってやみません。

筆者:ササマユウコ
1964年東京生まれ。東日本大震災を機にサウンドスケープを「耳の哲学」として音楽を問う対話や思考実験の場をつくっている。2000年代の作品はYukoSasama名義でN.Y.より世界72ヵ国で配信中。日本音楽教育学会、アートミーツケア学会、日本音楽即興学会会員。都立国立高校、上智大学文学部教育学科卒(教育哲学、視聴覚教育)、弘前大学大学院今田匡彦研究室(サウンドスケープ哲学 2011~2013)。
芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表 www.coconnect.jimdo.com

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