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ガムランとは何か。藤枝守組曲『両界ガムラン曼荼羅』から考える@自由学園明日館

 昨日は大学で美術史を学ぶ娘と、現代音楽家・藤枝守さんの『両界ガムラン曼荼羅』を聴きました。このところ私自身は人生何度目かの”ガムラン期”のようで、作曲家の宮内康乃さんから「ガムランの現在」を興味深く伺った翌週に、オペラシティで聴いたライヒの「18人」はガムラン手法と気づき、サウンドスケープのマリー・シェーファーも文字通り「ガムラン」という合唱曲を残したことも思い出しました。そういえばこの1年はカプカプの「炊飯器ガムラン」の使い方をいつも頭のどこかで考えている。。
 しかしそもそも「ガムラン」とは何でしょう。起源については謎も多いですが、西洋音楽史ではドビュッシーから現代まで多くの作曲家が魅了されてきました。非西洋的な「響き」が国境を越えて心を捉えることは間違いないですが、一方で楽器流出によって世界に広まった歴史は「文化搾取」の観点から今は慎重に捉えないといけない。西洋音楽ヒエラルキーのアンチテーゼとして、また最近ではコミュニティ・ミュージックのお手本としても語られる場が増えている。つまり「ガムラン」は民族音楽を越えたひとつの世界観なのです。指揮者や楽器の優劣もなく、旋律を「分け合う」という関係性はとても民主的。対になる楽器の音程には微妙な差異があり、その「ズレ」や「うねり」が豊かで美しい響きを生む。秀でた演奏家がひとりで88音を独占するピアノとは対極の演奏形態とも言えます。
 だから21世紀のガムラン音楽を外国人が「作曲する」ことの目的は、異国情緒やオリエンタリズムではない。ピアノやオーケストラ同様、目指す世界の「在り様」として選ばれます。これが日本の音楽教育では、明治期に西洋化に振り切ってしまったことで認識が歪んでしまう。そもそもクラシックよりもガムラン音楽の方が身近な文化圏にあるのです。楽器が希少なので国内では演奏者が限られますが、本来は誰もが演奏できる生活の延長線上にある音楽です。今は音楽教育に導入している公立小学校もあり、身近な楽器を使って「ガムラン形式」で演奏するワークショップも開催されていますが、生演奏を聴く機会は思いのほか少ないと思います。
 前置きが大変長くなりましたが、その中で藤枝さんが2020年コロナ禍に発表した「ガムラン曼荼羅」に続く本作を大変興味深く聴きました。終演後にご本人が話していましたが、この作品のメロディは植物文様(植物の電位変化のデータ変換)の手法でつくられ、作曲者は「媒介者」であることに徹している。エゴのない作曲行為が、作者自身も想像しなかった大きな世界を編み出していくのです。ガムランと曼荼羅、音楽と美術、つまり聴覚と視覚の融合から「宇宙の音楽」が編まれていきました。中央に銅鑼を置くことで、曼荼羅がみえる/きこえる円環的時間を生む。もしかしたらガムランは、曼荼羅を図形楽譜として生まれた音楽と美術の融合芸術なのかもしれないと夢想する体験でした。
 さらに特筆すべきなのが、奏でられる「場」の力です。木と漆喰による落ち着いた明日館の建築は、普段はキリスト教的な「礼拝堂」を想わせます。しかし200名がぐるりと楽器を囲んだこの日の空間が、最初からガムランのために存在したアジア的な空間に見えてくる。整然と並ぶ椅子を円環に並べ替え、中央に「楽器の曼荼羅」を設置するだけで、世界の関係性はがらりと変化するのです。
 演奏中に窓から差し込む光、ブラインドに揺れる植物の影、時おり聞こえる風の音、白い装束の美しい踊り手たち。。建物の内と外がつながった美しいサウンドスケープが何度も訪れました。とても静かだけど緊張感とは違う、静謐さにゆったりと身を浸す平和で穏やかな時間です。その時間を司る中央の銅鑼が鳴らされるたびに、曼荼羅の世界が大きな余韻に包まれていく。深い「うねり」は安心感や幸福感を伴って、波紋のように広がっていく。ガムラン曼荼羅とは世界を整え、祈るオンガクなのでした。
 
 余談ですが、藤枝守さんとは不思議とご縁があって、最初に就職した80年代後半セゾン文化を共通項に、ここ数年は笙の石川高さん、宮内さん主宰つむぎね客演作品、コロナ禍の「音楽塾」等で貴重なお話を伺う機会がありました。90年代ケージ以降のアメリカ現代音楽”直系”の作曲家ですが、近年はサイトスペシフィックなアプローチもされています。音律の歴史から音楽を考える『響きの考古学』も是非読んでみてください。


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