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空耳散歩#05 Parallel SoundScape

音楽って何だろう?2011年以降、サウンドスケープを『耳の哲学』に世界のウチとソトを思考実験しています。考えるシリーズ「空耳散歩#05 Parallel Sound Scape」公開しました。(文化庁文化芸術支援事業)

 今回は「時間」と「空間」をテーマに、2020年コロナ時代に存在したパラレルな音や風景をひとつの動画にしてみました。

 都心と郊外、ふたつの無関係な場所に存在する音と風景。ミスマッチのようでいて、ひとつの世界観を生みだしていく感覚がとても「音楽的」だなと思いました。ひとまとまりのサウンドスケープに聞こえる駅のアナウンスも、実は「時刻表」という”楽譜”によって各ホームが決まった時間に音を放っている。本来は「交わっていない」音です。太鼓のようにリズムを刻んでいるのはエレベーターの音。この音がアクセントとなって全体がひとつの「音楽」に聞こえませんか?写真(視覚)からは時系列や関連性をほどいて、色やニュアンスで5秒・7秒・5秒(俳句のリズム)で写真を直感的に配列していきました。「色」の統一性は意識しました。目できく、耳でみるような動画です。
 音とモノのいちばんの違いは”境界線”にあります。音にはあっという間に境界線を越えて、他者の領域を包み込んでしまう力がある。これは両刃の剣とも言えて、実は「音の力」を扱う専門家には必要不可欠な意識です。「音」は誰にでも簡単に手に入り「放つ」ことができますが、光や電力と同じ物理的なエネルギーです。ですから扱い方を間違えると誰かを「傷つけて」しまうこともある。「爆音」やノイズは魅力的ですが聴覚から触覚に越境する力を持っている。本来は「危険物取扱」なのです。
 例えば美術展のサウンドアートの展示で、他の作品の世界観に侵食している場面に遭遇することがあります。これは作家/展示者の双方に「サウンドスケープ」という意識の有無が問われるケースです。視覚に置き換えて想像するとわかりやすいですが、会場で隣接した作品の画材が混ざりあってしまうような状態です。絵の具(モノ)ではまず考えられませんが、音にはそれが起こり得るのです。しかも隣同士とは限らない。展示空間の響き、作品を置いた位置によって音はあらゆる方向に飛んでいきます。そもそも展示した作品と空間の関係性が調和しているかどうか(”衝突”という調和も含めて)。ここで「サウンドスケープ」の思考が必要になるのです。音は「可視領域」を軽々と超えていきます。他の作品同様に「モノ」として扱うと想定外の事態が起こるのです。
 さらに「音楽の力」まで視野を広げ歴史を振り返ると、勇ましい音楽が戦時の「国威発揚」に利用されることもある。音や音楽はそれほど簡単に人の心に入り込み、全体を包み込んでいくことは意識していたいものです。
 
 この動画からそこまで思考が広がるかは別として、日々の暮らしで無意識に見ているもの、聞いている音はすべて自分の「無意識」に染み込み、記憶のサウンドスケープを編んでいる。それは自分の内なる「宇宙の音楽」です。
 実は動画の最後の表記がEBISU STATIONとなっていますが、正しくはHARAJUKUです。なぜ間違えたのだろう?確かに録音時の記憶の風景は原宿駅のホームだったのですが、我ながら理由を考えてみました(言い訳ともとれますが苦笑)。おそらくですが、アナウンスに「恵比寿」が入っていて、編集時に何度も聞いているうちにこの音が無意識に染み込んでしまったのだろうと思います。この日は恵比寿から電車に乗ったので記憶が混同した可能性もあります。逆に言えば「駅名」のアナウンスがなければ鉄オタでもない限りどこの駅かすぐにはわからない。山手線に限らず、東京のいたるところで同じような音風景を耳にしているのです。あらためて聞くとカオスのようで意外と規律がとれている、何とも賑やかな駅のサウンドスケープは東京生活者の体に染み込んでいるはずです。
 太鼓のようにリズムを刻んでいるのは先ほども言いましたがエレベーターのリズムです。都市には独特のリズムがある。都市だけでなく、自分の暮らす街や空間、部屋の中にも独特のリズムがあるはずです。ライヒの音楽をきくとマンハッタンの街の雑踏が目の前に浮かびますし、漁師の家に育った人の音楽には潮の満ち引きを感じました。洗濯機や換気扇、PCのモーター音等、暮らしとともにある工業製品が放つ音のリズムも体に染み込んでいるはずです。
 世界中の大都市がほぼ同じ状況だと思いますが、東京は特に「都心」と「郊外」の音環境が違います。上空のにぎやかさも違う。もちろん都会にも豊かな森があり、道路の植え込みでは秋の虫が鳴いています。50年の人生をほぼ半分づつ都心と郊外で暮らした実感としてどちらにも「耳の楽しみ」がありますが、耳のひらき方、興味の持ち方は大きく違ってきます。なぜなら都心の街はほとんどの場所が車の音(首都高や東名)でマスキングされているからです。道路が往来する植え込みの中で鳴いている虫の声は、よほど注意深く耳を澄まさないとなかなか気づきません。数か月ぶりに都心に出ると下水のような独特な「匂い」も感じます。2015年にコラボレーターをしたスイス人アーティストJan&Angelaは、東京の街には絶え間なく車の音が流れている、これは「東京の音」だと話していました。
 特にロックダウン中は都市と郊外のサウンドスケープに大きな違いがあった。それがこの動画です。都市郊外は目に見えぬウィルスの存在に怯えながらも、比較的穏やかで静かな時間が流れていました。散歩の途中で見つけた小さな生き物や植物たちの変わらぬ姿や鳴き声、突然の長い休みの中でも森で元気よく遊ぶ子どもたちの声、公園でリモートワークをするお父さんの姿もみまけました。そういう屋外の光景をなんだか「いいな」と思ってみていたのですが、緊急事態宣言が解除されると同時に「元通り」になっていくようで不安や寂しさも覚えます。なぜならその暮らしにこそ「新しい生活様式」を感じたからですし、そこに「新しい音楽のかたち」もあるだろうと思えたからです。
 ただロックダウン中も都心の駅のアナウンスは「時刻表」通りに、人影まばらな駅のホームに響き渡っていたのです。

『空耳散歩#05 Parallel Soundscape』
Directed and Walking and photo by Yuko Sasama /ササマユウコ
https://www.yukosasama.jimdo.com
(『コロナ時代の新しい音楽のかたちを思考実験する』2020文化庁芸術文化活動継続支援事業)




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