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親交の深い人々の思い出で綴る、ドイツが誇る天才少年🇩🇪ムシアラくんの軌跡

—— 以下、翻訳 (『Goal』記事全文)

ハンジ・フリック監督はサイドラインで凍りついていた。ミュンヘンのアリアンツ・アレーナの寒さのせいではなく、チームが、ブンデスリーガのライバルRBライプツィヒとの試合開始25分で、いつも通りのエキサイティングなサッカーができなかったからだ。

リーグ首位のバイエルンは、ボールを持ったときは突破力に欠け、ボールを持っていないときは狙いが定まっていなかったのだ。普段は完全無欠の存在であるマヌエル・ノイアーが些細なミスを犯したことで、アウェーのライプツィヒが先制した。ベテランMFハビ・マルティネスは、左足の太ももを抱えて交代を要求した。すでに劣勢に立たされたバイエルン・チームにとって、事態はさらに悪化するかに見えた。

「ハビ、早く元気になってくれ」と、バイエルンのスタジアムアナウンサー、ステファン・レーマンの寂しい声が誰もいないスタジアムに響き渡った。その瞬間、第4の審判員の交代ボードに42番の数字が点灯した。マルティネスより15歳近く若く、体重も20キロ近く軽いジャマル・ムシアラが、ピッチに投入されたのだ。そして、まるで魔法のような出来事が起きた。

「わお!信じられない。」レーマンがマイクに向かって笑ったのは、交代からわずか5分後のムシアラの得点だった。彼の技術的に完璧なフィニッシュ以上に印象的だったのは、ライプツィヒの4人のディフェンダーたちや守護神グラーチがそれを止められなかったことだ。これは、ピッチで最年少の17歳ムシアラが、中盤で自身の役割をいかに解釈していたかを表しているとも言える。

ムシアラは、どんな複雑なパスも自在に操り、相手のラインを優雅にくぐり抜け、巧みにボールを味方に供給していった。これはまさに彼のゴールから4分後に起こったことだ。彼はトーマス・ミュラーへ見事なパスを送り、バイエルンを2-1のリードに導いたのであった。結局、バイエルンは3-3の引き分けに終わったが、ついに自分たちの手にはダイヤモンドがあることを発見した。

「序盤はそれほどボールをコントロールできていなかったが、ジャマルの投入でそれが変わった」これは、ムシアラがブンデスリーガで7試合目の出場を果たした後のフリック監督のコメントである。ライプツィヒのユリアン・ナーゲルスマン監督も、ムシアラのことを非常に認めた様子だった。「彼はボールに自信を持っており、足が速く、守備にも厳しい。非常に大きな才能を持った選手だ」

ドイツからイングランドへ、そして再びドイツへと、刺激的な旅を続けてきたタレント。世界的なスター選手やワールドクラスの監督をも魅了するタレント。将来はドイツ代表でプレーすることが明白となったタレント。

『Goal』と『SPOX』は、ムシアラのこれまでのキャリアをたどるべく、彼の人生において最も重要な人物たちに取材を行った。


フルダでの幼少時代

ドイツの小さな町フルダにあるレーネルツスポーツクラブの敷地内には、石造りのスタンド観客席がある。

大成功を収めたシーズンの締め括りに、U-7の11人の少年たちが一緒に記念撮影のためにポーズをとっていた。この写真の中で、最前列の右端にいる少年ほど笑顔の子はいない。

それも頷ける。どの子も金メダルと銀の彫刻を誇らしげに持っているが、ただ一人、彼だけが『得点王 TSVレーネルツ Gユース 2008/09』と書かれた金銀のブーツを持っているのだ。これは、最初の監督から彼への贈り物だ。

「あの子は1試合5~10ゴールを記録していた」と、ミハ・ホフマンは笑いながら振り返る。「少なくとも彼にささやかな感謝の気持ちを伝えていなかったら、私は悪い監督になっていただろう」と語った。

ジャマル・ムシアラにとって、このブーツはその成果以上のものだ。トロフィーは今でもミュンヘンの彼の家の目立つ場所にあり、彼のルーツであるのんびりとした忘れられない時間を思い出させてくれる。現在はSGバロックシュタットフルダ・レーネルツというクラブ名に改名したTSVレーネルツだが、それは彼にとって最初の、そして長い間、ドイツで唯一プレーした経験のあるクラブであった。

ムシアラは2003年2月26日、ポーランド人のルーツを持つドイツ人の母とナイジェリア人の父との間にシュツットガルトで生まれた。しかし、彼が2歳の時、母親のカロリンがフルダで社会科学の学士号を取得するため、家族揃ってシュツットガルトからフルダに引っ越すことを決めた。

ホフマンは、この子との最初の出会いを思い出し、熱く語ってくれた。「私たちは屋内トレーニングをしていた。ジャマルはまだ4歳だったが、何も恐れることなく自分から練習していたんだよ。」

わずか1シーズンで、この才能豊かな選手は100ゴールの大台を突破した。それはTSVにとっての祝福であると同時に、サインでもある。「ジャマルにとっては実力以下のチャレンジでしかなかった」とホフマンは言う。「だから、彼を年上の選手たちと一緒にプレーさせることにしたんだ。彼の父親も大賛成だった。」

「リッチ」の愛称で知られる、ムシアラの父親ダニエル・リチャードは、ドイツに移住する前、母国ナイジェリアで高いレベルでプレーしていたことがある。彼は息子のサッカーの旅の最初の一歩を、プライベートコーチのように付き添ったのだ。ホフマンの後を継いでレーネルツで監督を務めたブランコ・ミレンコフスキーはこう語る。「リッチはサッカーに夢中だった。彼はいつも息子ジャマルを応援するためにラインの上や下を走っていた。たいていは試合が終わると、息子よりも汗だくになっていたんだ!」

一方、母親のカロリンは静かに観戦し、幼いジャマルのプレーを見ては、時折、家族のアルバム用にと写真を撮っていた。最初の頃、ミレンコフスキー監督の主な仕事は、ジャマルが相手チームがゴールを決めても祝わないようにさせることだったという。

「ジャマルはいつも祝いたいと思っていた。ゴールが決まれば祝うのは、彼には当然のことだった。どちらのチームがゴールを決めてもね」とミレンコフスキーは言う。「ジャマルが相手のゴールを祝った時の、リッチの典型的な反応を今でも覚えている。最初は恐ろしさで手を投げ上げて、頭を抱えて笑っていたよ。」

この時は、まだ楽しむことが一番だった。それにもかかわらず、レーネルツのピッチ上で見ていた人なら誰でも、ジャマル・ムシアラが普通の子供ではないことは明白だった。

「彼は対戦相手よりも2歳年下だったこともあり、体格は他の子たちよりもやや華奢だった」とミレンコフスキーは思い返す。「それにもかかわらず、彼は他の選手の周りで踊っていた。ジャマルは、精神的には他の選手よりもずっと成熟していたね。」

ミレンコフスキーとその前任者ホフマンは、特にこの少年のボールコントロールに感銘を受けていた。「彼は信じられないほど軽快なドリブルを見せ、ボールを失うこともなかった。当時でさえ、彼のプレーを見るのは夢のようだった」とホフマンは語る。

7歳まで、ムシアラはTSVレーネルツに所属し、クラブで多くの試合や大会で勝利を収めていた。その後まもなく、彼は人生で二度目の転機を迎えることになるが、それは彼のサッカーキャリアにとっても決定的なものだった。母親のカロリンが、フランクフルトのゲーテ大学の修士課程の一環として、サウサンプトン大学で4ヶ月間の留学プログラムに参加するチャンスを与えられたのだ。ジャマルの妹ラティーシャも含め、家族全員がフルダを離れることとなった。


サウサンプトンでの冒険

カロリン・ムシアラとダニエル・リチャードは、息子ジャマルのための新しいサッカークラブを見つけようとしたものの、電話をかけてもどれも失敗ばかりでうんざりしていた。

家族がイギリス南部の港町に移動してから、わずか数日間の出来事だったとはいえ、ボールのない毎日はジャマルにとっては失われた日々だった。2010年10月、彼の両親は、町で一番大きなクラブチームに行こうという、シンプルな一歩を踏み出す。アポイントは入れていないが、これが大当たりとなった。家族はセインツ財団のオフィスのすぐ目の前に駐車し、リッチは息子の手を取ると、建物へと入って行った。するとそこで、ムシアラ一家は幸運にもジャズ・バッティ氏に出くわしたのだった。

バッティ氏は財団で正社員として働き、その傍らでシティ・セントラル・フットボールクラブを運営していた。このクラブは、主に恵まれない家庭や移民の家庭の子供たちが週末に同じ志を持った人々と一緒にプレーする機会を得るようにと設立された、アマチュアクラブである。彼はジャマルを、弟ロシュ・バッティ氏が監督を務めるU-7のチームに紹介した。

「ジャマルは最初に会ったときは英語を一言も話せなかったが、すぐに社交的なつながりができた。彼は、サッカーがいかに早く、簡単に、異なる国や文化の異なる人々を結びつけることができるかを示してくれた」とロシュは言う。

そのセントラル・シティでは、ムシアラは誕生日を同じくするサウサンプトン出身の少年リヴァイ・コルウィルと知り合い、今日まで続く友情を築いた。

コルウィルはジャマルが来るまでセントラル・シティで最も才能のある選手と言われていた。しかし、ドイツからの新加入選手と数日一緒に過ごしただけで、ロシュ・バッティ氏は自分の中に絶対的な才能を持った選手がいることを確信した。

ロナウジーニョ、リオネル・メッシ、ジネディーヌ・ジダン、ティエリ・アンリなどのお気に入りの選手のトリックを真似ることは、少年にとってはすでに簡単なことだった。U-7の数試合に出場し多くのゴールを決めると、ロシュは彼を上のカテゴリに昇格させるとともに、ジャマルの父親リッチとの話し合いの場を求めた。その後、ジャマルをさらに上へと昇格させる必要性について、全員が同意したのだった。

「リッチは、息子が特別な才能を持っており、大きなクラブのユース選抜に入ればもっと上に行けるはずだと言い続けていた。そんな自信に満ちた発言に、多くの人は笑っただろう。つまり、父親というのは、息子についてそういうことを言うものではないだろうか?しかし、リッチは正しかった」とロシュ・バッティ氏は明かした。

そこでバッティ一家はセインツのスカウト部門の人脈を利用することにした。ロシュは「良い知り合い」であるディック・ヘイズに連絡を取ったのだ。これまでも、ロシュは彼に有望な若手選手を1人か2人推薦していた。そのスカウトは、今度ジャマルが出る試合に来ることを約束してくれた。この試合で、すべての運命が変わることになる。

「これ以上うまく行くことはないだろう」とロシュは言う。「ジャマルは10分で6ゴールを決めた。しかし、それだけではなく、彼はその日、私があの年齢の選手には見たことがないような驚くべきチームスピリットを見せてくれたのだ」とロシュは語った。彼の目標は、チームメイト一人一人のゴールをアシストすることだった。

この計画はほぼ完璧に機能したが、最終的にはセントラル・シティとペース・ピューマのU-8チーム同士の衝突により1人の少年が得点できずに終わった。「ジャマルはこのことにとても腹を立てていた」とロシュは振り返る。とはいえ、シュトゥットガルト生まれのこの選手のパフォーマンスは、最後のアシストが生まれなかったとしても十分にセンセーショナルなものだった。

ヘイズは試合終了のホイッスルが鳴った直後、バッティ兄弟のもとに駆け寄った。そして、ドイツ出身のこの少年をトライアルに招待したいと伝えた。一週間後の2010年11月、ムシアラはサウサンプトン中心部の西にあるクラブの練習グラウンド、ステープルウッド・キャンパスのピッチにいた。「彼らはすぐにテストマッチで彼を起用した」とロシュは語る。「そしてその時も、ジャマルは実際に2桁得点を記録した。驚異的だった。」

その後、セインツ・アカデミーの責任者テリー・ムーアとの打合せが予定されていた。「ムーアは、ジャマルが今まで見た中で最も才能のある子であり、クラブは彼と契約するために必要なことは何でもしなければならないと言った」とロシュは明かした。

セインツでのトライアルを終えると、ジャマルはステープルウッド・キャンパスで数週間プレーした。国内の他クラブのスカウトが彼の存在に気付き、一目見ようとサウサンプトンを訪れるまでは。そのクラブの中には、チェルシーとアーセナルも含まれていた。

彼には、チェルシーのコバム練習場や、アーセナルのヘイル・エンド(ユースアカデミー)でのトライアルの招待が送られた。ロンドンの2大クラブが示した関心の声は、セインツのオフィス内で瞬く間に広まり、2011年1月にはニコラ・コルテーゼ会長でさえ積極的に動き、オフィスでムシアラとのミーティングを設定した。

コルテーゼ会長は当時、クラブで最も重要かつ有力な役員であり、取締役会長を務めていた。これまではトップチームの選手の勧誘に奔走していたコルテーゼ会長だったが、今度は7歳の少年をセインツ・アカデミーの新たな顔にしようと躍起になっていた。イタリア生まれのスイス人である彼は、ムシアラにドイツ語で話しかけた。

「まったくクレイジーな話だった」と、そのミーティングに同席したロシュ・バッティ氏は回想する。

「コルテーゼ氏は非常に同情的で雄弁だった。彼はこの少年に興味を持っており、あらゆる手段を駆使して、彼を長期的なユース契約でクラブに留めたいと述べていた。」

このミーティングに感銘を受けた一家だったが、サウサンプトンでの留学期間も終わりを迎え、その後すぐにフルダに戻ることになった。修士論文を書いていたカロリンは、多文化が共存する大都市ロンドンへの移住を希望しており、そこでの仕事やアパートを優先的に探していた。

熱烈なセインツファンであるロシュ・バッティ氏は、ジャマルがすぐにサウサンプトンに戻ってくるのを待ち望んでいた。2011年1月28日、彼はその思いをフェイスブックに投稿した。


ロンドンで築いた基礎

コーパス・クリスティ・カトリック小学校。ロンドン市内のニュー・モールデン地区、チェスナット・グローブに位置する学校だ。

9歳児にしては、ムシアラの英語力は驚くほど優れており、賞賛に値するものだった。彼の教師はこの意見を共有していた。そして、毎年恒例の詩のコンテストで、彼の書いた詩は優秀作品の一つに選ばれたこともあった。

その後、まもなく、彼のその短い詩『Moment (瞬間)』は、児童書『Around the World in 80 Words. Surrey』にも掲載された。

ー「僕は車内で座り、窓の外を見ている。外は寒い。でも、汗をかき、緊張している。どうなるかは分からない。突然、車が止まった。僕は目を閉じ、深呼吸をする。今はもう緊張していない。僕は幸せだ。何をすべきかは分かっている。父はドアを開けて、こう言った。『プレミアリーグ最高クラブの一つでの、初めての挑戦だ。頑張れよ!』そして僕は、今までにない程のプレーをしようと心に決めた」

この思い出は、彼がコバムにあるチェルシーの練習場で初めて練習に参加した日のことだった。ブルーズ(チェルシーの愛称)は、サウサンプトンとアーセナルとの争奪戦を制し、この並外れたタレントを獲得したのだが、この決断には、母親の影響もある。カロリン・ムシアラは、チェルシーの練習場からそう遠くない、サリー州西部ファーナムで仕事を見つけたのだ。彼女はそこで、米国のライフサイエンス企業のマーケティング担当者として働いていた。

ジャマルにとって、チェルシーを選んだのは正解だった。新しい環境ですぐに人脈ができた。同じくサウサンプトンからチェルシーにやって来た旧友リヴァイ・コルウィルをはじめ、同年代の少年たちは同じような気持ちでいた。彼らは、コバムでフランク・ランパードやジョン・テリー、ディディエ・ドログバを見かけたり、スタンフォード・ブリッジでのプレミアリーグの試合でプロのベンチの後ろに座ったりすると、自分たちを小さなスターのように感じていたのだった。

しかし、家に帰り、青いトレーニングウェアを衣装棚に収納するとすぐに、彼らは質素で、時に貧乏な状況の中にいることに気付く。その精神的なものを享受しているに過ぎなかった。苦労なしでは、何かを得られることはない。

ムシアラは、ピッチの外でもその勤勉さを発揮していた。彼は、高い自発性を持ち、新しいことに意欲的な、模範的な生徒であるという印象を与えた。コーパス・クリスティ小学校時代、サッカーの練習がない日の午後には、例えば、チェスクラブや、韓国の武術ハプキドーの練習に参加していたのだ。チェスをすることでより戦略的に考えることを学び、ハプキドーのトレーニングでより機敏な動きを会得した。

彼の活躍に恩恵を受けたのは、チェルシーだけではない。熱心なスポーツ教師トニー・メソローニ氏の指導のもと、ムシアラはコーパス・クリスティ小学校を毎年、権威あるプレミアリーグやサッカーリーグなど数々の学生トーナメントの決勝戦へと導いていたのだ。

「全国から1,000校以上が参加していた」とメソローニ氏は説明する。

2011年から2014年にかけて、彼の学校は3つのプレミアリーグの大会で優勝し、若きムシアラはそのうち2つの大会で得点王となった。その中でも最も手強い大会の一つがアンフィールドで行われた。「ジャマルは、リバプールの2人の選手、ジョーダン・ヘンダーソンとディルク・カイトから、大会の最優秀選手賞と得点王とを授与された」と、チームを指揮したメソローニ氏は当時を振り返る。

また、コーパスクリスティ小学校は、2013年のサッカーリーグ全国選手権大会で優勝した。ウェンブリーでの最終日には、後のイングランド代表監督となるガレス・サウスゲート氏とのトレーニングセッションも行われた。

コーパス・クリスティ小学校での最後の年、ジャマルはまた、人としても大きな飛躍を遂げた。ウェンブリー・スタジアムのガイド付きツアーの中で、彼はメソローニ先生にとある質問を投げかけた。「ジャマルはいつも学ぶことに意欲的で、過去にウェンブリーでハットトリックを決めたサッカー選手は誰かを知りたがっていたんだ。試合前、私はチームに、ウェンブリーでプレーできるというチャンスを楽しんで、そして懸命にプレーするよう言っていた。ジャマルは私に『ハットトリックを決めたい』と言った。その試合で彼は、なんと4ゴールを決めてしまったね。」

この時はまだ、ムシアラがチェルシーでプレーしていたことを知る人はほとんどいなかった。ロンドン南西部の学校であることから、メソローニ氏のチームはそこに拠点を置くクラブを代表していた。だからこそ、この小さな得点者は、学校のチームで参加するプレミアリーグの大会では、いつもフルハムのシャツを着ていたのだ。時にはブレントフォードやAFCウィンブルドンのユニフォームを着たこともあった。

しかし、チェルシーは、彼が学校以外にイングランドでプレーした唯一のクラブチームであった理由は、多くのチームメイトや、特にジェームズ・シモンズをはじめとするコーチたちとの関係が良かったことにある。

また、特に形成的な経験をしたことも、その理由の一つであったと言える。それは、例えば、ポーランドのポズナンで行われたレヒ・カップで、U-12のチームと一緒にプレーし、そこでユースレベルでは最高のゴールを決めたこと。そして、ベルギーのイーペルで行われたプレミアリーグのクリスマス休戦100周年記念大会でU-13のチームが優勝を果たし、ダウニング街でデービッド・キャメロン首相(当時)と会談したことなどである。

彼の学業での最大の功績の一つは、11歳の時に奨学金を受け、南クロイドン地区にあるエリート校ウィットギフト・スクールに入学したことである。この私立学校は、チェルシーのアカデミーと密接に連携を取り、授業と試合やトレーニングのスケジュールを調整してくれていたのだった。

その責任者となったのが、ウィットギフト校サッカー部の顧問アンドリュー・マーティンである。入学して以降、彼はムシアラの重要なサポート役となった。毎週5回の授業を終えても、クリスタルパレスなどでプレーしたウェールズの元プロ選手が、ムシアラの面倒を見てくれたのだった。

マーティン氏はこう補足した。「一緒に多くの時間を過ごしたことで、ジャマルと私はピッチ上でもピッチ外でも特別な関係になった」。というのも、マーティン氏にとって、ムシアラがサッカーだけでなく人としても成長できるよう、あらゆる面で彼をサポートすることが重要だったのだ。それは、十代として成長する少年の悩みや疑問を取り除くことも含まれた。

「まだ小さな子供ではあったものの、彼はすでに非常に粘り強く、逆境にもめげず、ファウルやキックを受けても決して文句を言うことなく、自分よりも大きくて屈強な少年たちと競い合っていた」とマーティン氏は言う。

「しかし、私の心に強く残っているのは、U-13の全国大会、準決勝の時のことだ。非常にタフでフィジカルの強いチームとアウェーで対戦し、全校生徒が観戦に来ていた。ジャマルはファウルを取られ続け、なかなか試合に入らせてもらえず、イライラしていた。しかし、ハーフタイムに彼に自分の良さを思い出すように、そして集中力を維持するように彼に言い聞かせたのだ。すると、彼は徐々にチャンスを得るようになる。チャンスがあればそれを活かしていく。ジャマルが後半に2ゴールを決め、我々は3-1で勝利したんだ。」

こうした試合の経験が、ムシアラに自分の能力への自信を深めさせることになった。


ドイツへの帰還

場所は、バートン・アポン・トレントにある、セントジョージズパーク。

まだクリスマスではないが、イングランドU-15の11番を背負う少年にとって、2017年12月18日はすでにクリスマスのように感じられた。

若きスリー・ライオンズ(イングランド代表の愛称)がオランダと戦ったこの試合、22分にムシアラは、この日の自身3点目を挙げ、立ち膝で滑ってゴールパフォーマンスを決めると、友人のジュード・ベリンガムも滑り込み、さらにカジュアルな握手でそれを祝った。完璧なハットトリックだった。

その後、試合はそこから大きく動くことなく終了。イングランドはケビン・ベッツィー監督の下、3-2で勝利したが、この試合を勝利に導いた彼は、これ以上の誇りを持つことはないだろう。

彼にとっては、素晴らしい一年の締めくくりとなった。若きサッカー選手としての彼のキャリアの中で最高の瞬間であり、彼の更なる向上心を掻き立てた瞬間であるとともに、ドイツサッカー協会(DFB)の注意をゆっくりと引きつけた瞬間でもあった。

それから約10ヶ月後、彼はドイツ西部ピルマーゼンでのU-16ドイツ代表チームに招かれた。

そこでは、2018年10月12日、ムシアラはフスターへーエ・スポーツパークのピッチに立ち、首を振っていた。彼はクリスチャン・ヴック監督のチームで2度目のテストマッチ、ベルギー相手に4-1で敗れたこの試合で25分間の出場を終えたばかりで、イングランドへの帰りのフライトが待ち遠しくてたまらなかった。ムシアラとDFBは、まだ相性が良くなかったのだ。協会側の接触は明らかに彼を称えていた。しかし、ムシアラは、ヴック監督もチームメイトのこともよく知らなかった。

それでも、15歳の彼には、どの国でプレーするかを決める時間がまだ十分にあった。この時期、彼はチェルシーに集中していたが、私生活ではチェルシーとの繋がりを断ることが多くなった。練習場の近くにあるチェルシー指定のホストファミリーの家に一泊したり、海外旅行に出かけたりするのが日課となっていた。3年後、ブルーズ(チェルシーの愛称)の要請により、ウィットギフト校を退学した彼は、クラブの学校法人でGCSE(中等教育修了の統一試験)の勉強を復習していた。

これは、彼のコーチたちやブルーズのアカデミー担当者が、彼はプロレベルに飛躍できると自信を持っていた証拠だった。ムシアラはゴールスコアラーであると同時にプレーメーカーでもあった。

「ジャマルは早い段階からゲームをよく読んでいた」とウィットギフト校の恩師アンドリュー・マーティンは言う。「それに加えて、あの堂々としたドリブル、狭いスペースでの素晴らしい動き、そして相手ゴール前での冷静さは、彼を止められない存在にしていた。」

それでも、スタンフォード・ブリッジでプレーするという夢は実現しなかった。それは主に、一身上の理由によるもので、Brexitの影響で家族はドイツに戻ることを考えていたためだ。

それよりも重要なのは、幼少期に大好きだったバイエルンが彼に注目していたことだ。実はミュンヘンのクラブは、2019年にチェルシーのもう一人のタレント、カラム・ハドソン=オドイの獲得を熱烈に求めていたのだ。ハサン・サリハミジッチとの話し合いの中で、ハドソン=オドイの代理人を務める兄ブラッドリーはジャマル・ムシアラの名前を何度か口にしていた。しかし、バイエルンは、ムシアラがどのような選手で、どのような能力を持っているのかは以前から知っていた。

ヘッドスカウトのマルコ・ネッペ氏は2017年以降、同選手を複数回にわたって注意深く観察していたほか、U-16のチームを率いるアレクサンダー・モイ監督も数年前に同選手に気づいていた。「私が最初にジャマルのプレーを見て、彼を知るようになったのは、2015年にFCアウクスブルクと一緒にロンドンへ親善試合の遠征をした時のことだった」とモイ監督は明らかにし、興奮しながら語った。

その1年後にイングランド中部ウォリックで行われた別の大会で、モイ監督は再びこの少年に会った。そして、3人目の兄弟ジェレルを含む、彼の家族と知り合う機会となった。非常に楽しい会話の後、彼はバイエルン・ミュンヘンのプレゼントが入った小さなパッケージをムシアラに手渡した。「ドイツの家族がバイエルン・ミュンヘンを応援しているのを知り、ジャマルの妹と弟に何か特別なプレゼントを贈りたかったのだ。それから我々は、連絡を取り合うようになった」とモイ監督は明かす。

3年後、彼はミュンヘンでムシアラの家族に再会した。「ジャマルの移籍後の再会で、彼の母親は、妹のラティーシャが2016年にウォリックで私がプレゼントしたバイエルンのキャップをいつもかぶっていることを話してくれた。そして、ジャマルの父親は、その時からバイエルンのペンダントをストラップにつけていたそうだ」とモイ監督は振り返った。「それ以来、彼の家族はいつもバイエルン・ミュンヘンに好感を持ってくれていた。」

これは家族だけではない。「当時、いくつかのオファーを受けていたんだ」と、ムシアラは『Goal』と『SPOX』に語った。「でもバイエルンを選んだのは正解だった。正直に言うと、バイエルン・ミュンヘンのようなクラブからのオファーを断ることなど出来ないよ。」


バイエルンミュンヘンでの爆発

バイエルンミュンヘン・キャンパス。それは、ミュンヘン市内フライマン地区のインゴルシュタッター通りにある。

7月のある暑い日、ムシアラはバイエルンへの移籍を前に、GCSE(中等教育修了の統一試験)の試験期間中にスポーツをした結果、顎を骨折してしまい、まだ少し痛々しい見た目だった。ダニー・シュヴァルツ氏は、初めてピッチを横切るムシアラを見て、やや訝しげな表情を浮かべていたのだった。

当初はミロスラフ・クローゼ監督の指揮するU-17のチームでプレーする予定だったこの16歳だが、シュヴァルツ氏にとっては「目立たない」存在だったという。「彼の初めて会った後、私はこう思った。『まあ、シャイで控えめな子だな』と。ジャマルがピッチ上であんなに爆発するとは想像もしていなかった」と、当時、マルティン・デミチェリス監督とともにU-19の監督を務めた同氏は振り返る。

「彼が初めて参加したU-17のトレーニングで、彼が目立たず内気に見えたことで、その印象はさらに強まったね。」

その原因は怪我だった。「顎を骨折したことで、彼がここでスタートを切るのに苦労するのは明らかだった」とシュヴァルツ氏は言う。遅れを取らないよう、ムシアラには、パーソナル トレーナーとしてステフェン・テペルを付け、キャンパスでの通常トレーニングに加えていくつも特別シフトを入れたことも明かした。

運動神経におけるスポーツ心理学を専門とするテペル氏は、まだ彼の「反射反応の安定性」を改善するために定期的にムシアラと働いている。その一例を、こう説明する。「相手からの強いプレッシャーを受けた状態でも、ボールコントロールの質をさらに高めることで、対人戦の場面でいかに強力なカウンター攻撃に繋げられるかというものだ。これは、特にバランス感覚や眼球運動を改善することで向上させることができる。そのどちらも、背筋や体幹筋と直接神経を伝って機能している。例えば、対人戦でで非常に重要な体幹の筋肉というのは、眼球運動によって特別にオンとオフを切り替えることができるのだ。」

ムシアラのU-19昇格の準備が整うまで、さほど時間はかからなかった。シュヴァルツ氏はわずか数回の練習を共にしただけで、この若者への第一印象を大きく変えることとなる。「彼はあっという間に自分の武器をピッチに持ち込んだね。」

シュヴァルツ氏は監督として、特にムシアラのファーストタッチに注目していた。「彼は一度のターンだけでマークする相手を置き去りにし、新しい状況を作り出すことができる。彼は何人もの選手に囲まれても、何の問題なくドリブルで交わすことができる。彼はストリートサッカーの選手だ。彼は自分で『次はボール2回またいで、足でボールを左に動かそう』なんてことは言わない。直感的にそうするんだ。こんな選手はほとんど見たことがない。これは才能だ。トレーニングで鍛えられるものではない」

しかし、シュヴァルツ氏や他のコーチたちは、このティーンエイジャーに教えるべきことはまだあると感じていたという。

「ミロ(・クローゼ)、ミチョ(・デミチェリス)、私の3人は、彼の守備でのプレーに注目した。そして、私たちはこう言った。『自分のプレーを前面に出し、直感を信じるんだ。100回ボールを失うなら、それは100回失うんだ。だが、ボールを失った後も戻らずにじっとしていたら、問題が起きてしまうだろう』と。」そう、シュヴァルツ氏は興味深い比較を挙げて語った。

ミュンヘンに到着して1年も経たない2020年6月20日、ブンデスリーガのフライブルク戦の88分に、ミュラーと交代でジャマル・ムシアラが投入された。これまで彼はU-19で8試合、U-23で10試合に出場し十分な活躍を見せたことで、ハンジ・フリック監督は、この17歳をバイエルン・ミュンヘン史上最年少でブンデスリーガの舞台に送り込んだ。これは目覚ましい成長の結末であり、同時に全く新しい何かの始まりでもあった。

フリック監督は彼を「傑出したタレントだ」と称賛し、バイエルンのアカデミーを称賛した。それからしばらくして、リスボンで集中開催されたチャンピオンズリーグ「ファイナル8」ではトップチームの一員として帯同し、バイエルンは欧州チャンピオンに輝いた。ポルトガルの地では出場機会こそなかったが、ムシアラにとっては信じられないような経験となり、アイドルの一人であるネイマールと腕を組んだ記念写真まで手に入れた。

2020年の短い夏のブレイク期間ののち、ムシアラはブレイクを果たす。9月18日、8-0で勝利したシャルケ戦でブンデスリーガ初ゴールを決めたのだ。12月初旬にはアトレティコ・マドリードとのアウェー戦でチャンピオンズリーグデビューを果たし、その直後のブンデスリーガのRBライプツィヒ戦でも、バイエルンの若き背番号42の躍進がとどまることはなかった。

フリック監督だけでなく、彼のチームメイトでさえも、公に彼を絶賛し始めていた。「ジャマルは年齢の割に、驚くほど優れた選手だ」とヨシュア・キミッヒは語った。そして、マヌエル・ノイアーは「この少年は僕らチームの重要な一員だ」と明言した。

キミッヒやノイアー、セルジュ・ニャブリ、レロイ・サネ、レオン・ゴレツカ、そしてフランス人選手のキングスレイ・コマンも、週を追うごとに、このスターの卵の親密な友人となっていった。サネはこの小柄なティーンエイジャーに「バンビ」という愛称をつけた。そして「仕事中毒」のキミッヒは、ゼーベナー通りのウエイトルームで、ムシアラに追加の特訓をさせることを自身の役割だとしている。

こうした取り組みを通して、キミッヒは他のドイツ代表のチームメイトと同じく、ムシアラをDFBに翻意させるチャンスを逃さなかった。ピルマーゼンで起きたU-16での不運な冒険以来、ムシアラは胸に鷲のマークをつけて試合に出ておらず、代わりにスリーライオンズのジャージを着ていた。

それが変わろうとしている。彼の18歳の誕生日の少し前に、ムシアラはドイツ代表を選ぶことを決断した。キミッヒらの説得力のある努力のおかげであるだけでなく、ドイツ代表監督ヨアヒム・レーヴの努力のおかげでもある。

「僕にとって簡単な決断ではなかった」と、ムシアラは『Goal』と『SPOX』のインタビューで明らかにしている。「僕にはドイツへの思いとイングランドへの思いがある。どちらの心もずっと鼓動し続けていくだろう。最終的には、自分が生まれた土地であるドイツでプレーすることが正しい決断だったという自分の気持ちに耳を傾けただけだ」。しかし、イングランドは彼にとって「常に故郷であり続ける」と言う。父親は今もロンドンに住んでいる。

「僕がイギリスに来たとき、まだ7歳で、ほとんど言葉を理解していなかった。しかし、サッカーという言葉と、イギリスの人々の優しさが、僕がうまく周囲に馴染むのを助けてくれたんだ。当時の僕はまだ子供で、複雑な背景を持ち、言葉を話せなかったにもかかわらず、イギリス人はいつも僕に歓迎されている思いを感じさせてくれた。サッカーでは、その瞬間、情熱、そしてもちろん楽しみが人々を結びつける。それがサッカーの魔法なんだ。そのすべてが僕を、今の僕にしてくれたんだと思う。」

特別な人であり、特別なサッカー選手。楽しみなのは、ドイツ代表だけではない。ムシアラはまもなく、バイエルン・ミュンヘンと自身初のプロ契約を結ぶことになる。そして、きっと彼の印象深いストーリーは、今後も続いていくことになるだろう。


▼元記事
https://www.goal.com/story/the-making-of-jamal-musiala/index.html


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