親交の深い人々の思い出で綴る、ドイツが誇る天才少年🇩🇪ムシアラくんの軌跡
—— 以下、翻訳 (『Goal』記事全文)
ハンジ・フリック監督はサイドラインで凍りついていた。ミュンヘンのアリアンツ・アレーナの寒さのせいではなく、チームが、ブンデスリーガのライバルRBライプツィヒとの試合開始25分で、いつも通りのエキサイティングなサッカーができなかったからだ。
リーグ首位のバイエルンは、ボールを持ったときは突破力に欠け、ボールを持っていないときは狙いが定まっていなかったのだ。普段は完全無欠の存在であるマヌエル・ノイアーが些細なミスを犯したことで、アウェーのライプツィヒが先制した。ベテランMFハビ・マルティネスは、左足の太ももを抱えて交代を要求した。すでに劣勢に立たされたバイエルン・チームにとって、事態はさらに悪化するかに見えた。
「ハビ、早く元気になってくれ」と、バイエルンのスタジアムアナウンサー、ステファン・レーマンの寂しい声が誰もいないスタジアムに響き渡った。その瞬間、第4の審判員の交代ボードに42番の数字が点灯した。マルティネスより15歳近く若く、体重も20キロ近く軽いジャマル・ムシアラが、ピッチに投入されたのだ。そして、まるで魔法のような出来事が起きた。
「わお!信じられない。」レーマンがマイクに向かって笑ったのは、交代からわずか5分後のムシアラの得点だった。彼の技術的に完璧なフィニッシュ以上に印象的だったのは、ライプツィヒの4人のディフェンダーたちや守護神グラーチがそれを止められなかったことだ。これは、ピッチで最年少の17歳ムシアラが、中盤で自身の役割をいかに解釈していたかを表しているとも言える。
ムシアラは、どんな複雑なパスも自在に操り、相手のラインを優雅にくぐり抜け、巧みにボールを味方に供給していった。これはまさに彼のゴールから4分後に起こったことだ。彼はトーマス・ミュラーへ見事なパスを送り、バイエルンを2-1のリードに導いたのであった。結局、バイエルンは3-3の引き分けに終わったが、ついに自分たちの手にはダイヤモンドがあることを発見した。
「序盤はそれほどボールをコントロールできていなかったが、ジャマルの投入でそれが変わった」これは、ムシアラがブンデスリーガで7試合目の出場を果たした後のフリック監督のコメントである。ライプツィヒのユリアン・ナーゲルスマン監督も、ムシアラのことを非常に認めた様子だった。「彼はボールに自信を持っており、足が速く、守備にも厳しい。非常に大きな才能を持った選手だ」
ドイツからイングランドへ、そして再びドイツへと、刺激的な旅を続けてきたタレント。世界的なスター選手やワールドクラスの監督をも魅了するタレント。将来はドイツ代表でプレーすることが明白となったタレント。
『Goal』と『SPOX』は、ムシアラのこれまでのキャリアをたどるべく、彼の人生において最も重要な人物たちに取材を行った。
フルダでの幼少時代
ドイツの小さな町フルダにあるレーネルツスポーツクラブの敷地内には、石造りのスタンド観客席がある。
大成功を収めたシーズンの締め括りに、U-7の11人の少年たちが一緒に記念撮影のためにポーズをとっていた。この写真の中で、最前列の右端にいる少年ほど笑顔の子はいない。
それも頷ける。どの子も金メダルと銀の彫刻を誇らしげに持っているが、ただ一人、彼だけが『得点王 TSVレーネルツ Gユース 2008/09』と書かれた金銀のブーツを持っているのだ。これは、最初の監督から彼への贈り物だ。
「あの子は1試合5~10ゴールを記録していた」と、ミハ・ホフマンは笑いながら振り返る。「少なくとも彼にささやかな感謝の気持ちを伝えていなかったら、私は悪い監督になっていただろう」と語った。
ジャマル・ムシアラにとって、このブーツはその成果以上のものだ。トロフィーは今でもミュンヘンの彼の家の目立つ場所にあり、彼のルーツであるのんびりとした忘れられない時間を思い出させてくれる。現在はSGバロックシュタットフルダ・レーネルツというクラブ名に改名したTSVレーネルツだが、それは彼にとって最初の、そして長い間、ドイツで唯一プレーした経験のあるクラブであった。
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