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森田芳光監督作品二本立て

そういえば、授業で観た森田芳光監督のハルと家族ゲームがとても面白かったので紹介します。

『ハル』
『ハル』はインターネット社会の光を見せてくれる映画である。現在、インターネットでの出会いが発端になった凶悪事件が多発しているため、私は映画を見る前、ハルとほしの関係にマイナスな印象を抱いていた。しかし、二人は顔の知らない誰かにだからこそ、日常で起きていることを気兼ねなく共有できたのだろう。二人は現実に対して不安を感じていた。ハルはラグビーができない体と大人として働いて行かなきゃいけない責任が重荷となっていて、ほしは高校生の時に付き合っていた人を忘れられず、前に進めないでいた。二人は現実の世界で孤立しているわけではないが、近い存在には抱えている悩みを素直に打ち明けられないでいた。私もハルとほしの考え方に似ているので共感できる点が多々あった。自分の思っていることをすべて話したいけれど、話す相手と日常でかかわりを持っていたら生活の中で居心地が悪くなることを想像するのである。このように若者が抱く潜在的な感情は『ハル』は繊細に掬い取っている。『ハル』が上映された1996年の時代性を考えると当時の若者にとっては、非常にもの新しい映画であっただろう。インターネットが発達した現在、この作品を観ると世代によって受け取り方が違うはずだ。大人は文字でしか交わさないやりとりに懐かしさを感じ、物心ついた頃からスマートフォンが当たり前の若者は常に連絡取れないもどかしさを一歩引いて昔の物語として観るだろう。また、『ハル』はシーン構成に特徴がある。チャットでのやりとりが中心となるため、シーンのつなぎ目にハルとほしの言葉が画面に映し出される。そこには、二人の声も表情もない。シーンごとの流れが一度切断されてしまうリスクを取りつつも、ハルとほしが言葉で心を通わしていることが顕著に伝わる構成である。

『家族ゲーム』
『家族ゲーム』は不気味な映画であった。私はこの映画で共感をする部分は全くなかった。しかし、飽きることなく最後まで見ることができたのは作品に緊張感があったからである。家庭教師と生徒が共に過ごす時間はこれから先に何が起きるのかが予測できなかった。映画が観客を魅了する要素として森田芳光による細かな演出があげられる。登場人物一人一人が少しずつ変なのである。家庭教師である吉本は沼田家の父親にも母親にも決して愛想を振りまかない。また、沼田家へ向かう手段が船であるのも違和感を感じる演
出であった。吉本に勉強を教わる茂之は、口角を片方だけあげて何を考えているのかわからない子供に見えた。人物のほかに、家を使った演出も特徴的である。家の食卓机は横並びで食事をする時に家族は顔を合わせることがないのだ。また、音の演出も非常に観客の不安を煽る。茂之の父親は目玉焼きの黄身を音をたてながら吸い、家庭教師の吉本は飲み物をわざとらしく音をたてて飲む。茂之の高校合格を祝う最後のシーンは音と食卓を意識した斬新な演出であった。沼田家と吉本が食卓でご馳走を食べているが、父親と兄が進路について言い合いを始めるにつれ吉本がご馳走を荒らし始めるのだ。お皿をひっくり返したり、食べ物を投げたり、ワインをこぼしたりする。お皿が重なる音や食べ物がべちゃっとする音などが段々と大きくなるに比例して観客が受け取る不気味さも比例していく。食卓が横並びのため、沼田家と吉本の動きを一度に観察することができるのも見どころである。

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