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女子高生はZenly(ゼンリー)に何を求めているのか(1/2)


この間、「ワイドナショー」でZenly(ゼンリー)というアプリの紹介をやっていた。

このアプリは、どうも登録しあった友人であれば、お互いの位置情報や電池残量が分かるアプリらしく、いま女子高生の間で流行っているとのこと。


この特集の動画が流れている間、ワイプに移ったゲストの方々は大変微妙な顔をしていた。私も同感だ。24時間、人に自分の位置情報を教えるなんてとても怖い。当然やましいこともないのだけれど、カフェでコーヒーを飲んでいたり、ジムで運動をしている時も常に「誰かからの目」を気にしていなければならず、心が休まらない気がする。今の高校生たちは自分の位置が常にバレていることに抵抗はないのだろうか。


スタジオにいた女子高生いわく、

「待ち合わせするときに便利だし、恋人同士で使っている人もいます。みなさんが想像しているような、何十人で使うようなアプリではなくって、本当に仲の良い数人で使うアプリなんです。」



なるほど。位置情報は「心が通った友達」にのみ提供するいうことか。


外部に対してのセキュリティ感覚はあるもの、心を許した友人にはとことん情報を開示しようとする。また相手にも同様の情報開示を求める。Zenlyは、こうした「親密度合」を可視化してくれるアプリなのかもしれない。


それにしても、なぜ女子高生はこれほどまで「親密度合」を感じたいのだろうか?Zenlyに何を求めているのだろうか?


ということで今日はZenlyとコミュニティについて考えてみたい。


女子高生は疑似家族を求めているのかも


私たちが生まれて一番初めに関わる社会、そして最も小さなコミュニティは家族。そしてほとんどの場合、この家族とは生まれてから死ぬまで一生関わりを持つこととなる。まさに「ゆりかごから墓場まで」のコミュニティである。



だからこそ私たちは、家族を”安全で安心”のコミュニティにしたいと思う。



ここでいう”安全で安心”というのは、言葉の通り「命の危険がない」ということもあるが、それらに加えて、そのコミュニティに対して疑心や不信感を持っていない状態のことを指している。

疑心
 疑いの心。疑い。 「 -を抱く」  
(weblio辞書)

不信
 信じないこと。信用できないこと。
「不信の念を抱く」「政治不信」
 誠実でないこと。偽りの多いこと。不実。
「不信行為」
 信仰心がないこと。不信心。
「不信の徒」   (コトバンク)


この疑心や不信は、どのようにして芽生えるのか。



それは「知らない」ということからスタートする。

「あれ?今日は帰りが早いはずだけどな……」
「あれ?いつもテレビみるのに今日はすぐ自分の部屋に行ったな…」

同居している場合、よほどネグレクトしている親でもない限り、家族の行動はぼんやりとでも把握したいと考えるものである。なぜなら家族のことをぼんやりと知ることによって、家族に対する疑心や不安が取り除かれるからである。むしろ「家族だから知ってて当たり前」という思いもあるから、自分だけ知らないと、何だか(安心が脅かされた気がして)心がモヤッとする。


知らないと不安になり知ると安心する。


こうしてみるとコミュニティの中を「知ること」または「知ろうとすること」は、まさに自分の安心や安全を確保しようとすることなのだと思う。

そして、相手の位置情報から一緒に居る友達、そして電池の残量まで知ることができるZenlyは、女子高生にとってコミュニティの安心・安全を担保してくれるアプリ、もっと言えば「疑似家族をつくるアプリ」なのかもしれない。


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Zenlyは時としてメンヘラを生む


ワイドなショーで諸々の議論がされていたが、その中で女子高生がこんなことを言っていた。

どうしても自分の位置を知られたくない時は「ゴーストモード」というモードがあって一時的に「位置情報を教えない」ように設定が出来るんです。
ただ、それをやってしまうことで「あの時いきなりゴーストにされたんだけど…」とかそういった問題はあります。

冒頭の通りZenlyは、仲の良い友人の位置情報を共有できるアプリだが、どうしても位置情報を知られたくない時には「ゴーストモード」というモードに設定することができる。このモードは、直近にいた場所で位置情報を止めることができるらしく、例えばA地点からB地点に移動したとしても、ゴーストモードにしておけばA地点が表示されたままになるらしい。


そこまでするならやらなきゃいいのに、、というご指摘もわかる。
しかし女子高生には、女子高生の付き合いというものがあるので、そこも分かってほしい。

(女子高生じゃないけど)

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ただ、どんなに親しい友人と疑似家族になったとしても、本当の家族のような関係になることはできない。Zenlyで出来上がった疑似家族は、どんなに仲良くてもあくまで他人であるので、心のどこかでどうしても返報性を求めてしまうからだ。


「お誕生日のお祝いしてあげたのに、私の時はしてくれなかった」
「なんで私ばっかりお店の予約しなきゃいけないの」

この返報性は(「好きの返報性」といった)ポジティブな場面では、大いに好循環を及ぼすが、上記のようなネガティブ場面においては、相手への「強要」という形で歪(ゆが)んで露呈することがある。

「何ゴーストモードしてんの。そんなに私たちのこと信頼できないワケ?」
「私も信頼しているんだから、あんたも信頼してよ。」


「教えているのだから知らせるべき」という返報の強要は、スタンフォードの監獄実験のようにどんどんとエスカレートしていってしまう。Zenlyは、特に顕著に出るのではないかと思う。


相手への過度な依存や束縛、独占欲を総称してメンヘラというならば、Zenlyは時として、メンヘラを助長するアプリとなってしまう。


さきほど、家族の行動はぼんやりと知っておきたい、と言ったが、この「ぼんやり」という表現は非常に重要になる。


ある程度は知っておきたいと思っていても家族の全て把握したいと思わないのは、単純に「帰ってくる家が同じ」ということもあるけれど、家族愛を根底においた「知らない」という余白に対しての許容があるからである。


次回につづく


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