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からまり、そして、ほどき

どういうわけか、絡まったものを見るのが好きだ。

あまったたこ糸、教室の大縄、イヤホンのケーブル。
放っておくといつの間にか絡まるあいつらのことだ。誰かが夜寝ている間にこっそりぐちゃぐちゃにしてるんじゃないかというほどあいつらは絡まる。絡まろう、という意思が見える。

あいつらを好きだといったが、正確にいうと、絡まったあいつらをほどくのが好きだ。ぐちゃぐちゃであればあるほどいい。やりがいというものが生まれる。

端と端を探す。一度離れてみて大体の絡まり方を見る。ほぐし、解く糸口を探っていく。出来るだけ手数は少ない方がいい。これは単なるこだわりで、結果には関係ない。

ほどいていくとあるとき「あ、いける」という瞬間が訪れる。これが気持ちいい。少し前までがんじがらめだった様子を思い出しながら、一気にほどく。すっきりとした姿を僕は満足して眺める。

どういうわけか、と文章の初めにいったものの、実は絡まっているものが好きな理由はきちんとあったりする。大抵の絡まったものたちは、使うときは解けた状態である。この状態を僕はきれいだと思う。

けれども、絡まる。使えない状態になってしまう。ほとんど生き物のように絡まる。その姿を見ると、不器用な子供を見ているような気持になる。

絡まりはやっかいだ。人間関係でもそれは一緒だ。はじめはただ仲良くしていただけなのに、ひとつの単語を訊き損ねるだけで簡単にすれ違う。会えないとまたすれ違う。相手の状況を想像できないともっと絡まる。ただ一本の糸のようであったつながりが、絡んで離れたくても離れられないしがらみにいつの間にかなってしまう。

だが、絡まりは時に美しい。愛憎入り混じる恋人の仲が、説明不可能ながらも熱を帯びて続いて行ったりする。ただ暮らしているだけなのに家族というものになったりする。競争を続けると相手がいないと競争自体が成り立たないということを知る。ぐちゃぐちゃとした醜さからしか見えない価値観はある。

だから、絡まりをほどこうとするのは残酷なのかもしれない。必死に作り上げた関係性という偶像を壊してしまう作業なのかもしれない。けれどほどくことを僕はやめられない。ルールや仕組みから自由になった人がどんな行動をするのかを見たい。何を見て、聞いて、感じて、人と人がかかわるのかを知りたい。

こんな風に考えてしまうのは、一度絡まった糸はもう二度と絡まる前の糸には戻れないということを知っているからなのかも知れない。

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