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承認欲求の奴隷

先日あげた記事がちょっと伸び、調子に乗っていたわけではないけれど、誰かからスキをもらえることに過敏になっていたように思う。

人はみな、他人に認められたいという欲求を持っているし、それは人が社会的な存在である以上、当然の欲求だろう。だから、僕がそうやって誰かから評価されることを無意識的にでも望んでしまうのも、ある程度は仕方のないことだとは思う。しかし、そこに過敏になりすぎると、誰かに求められるものばかりを生産しようとしてしまう。それはつまり、承認欲求の奴隷になるということで、いくら他人からの評価を求めることが根源的な欲求であるとはいえ、個人にとってよい状況とは言えない。

noteの記事に限らず、なんでも、文章を書く上でこれを意識することは、案外大切なのではないかと僕は考えている。というのは、あまりにも画面の向こう側にいる誰かを意識しすぎてしまうと、結局、なにも書けないということになってしまうからだ。僕は他人が完全に求めるものを書くことはできないし、なんなら、僕自身が求めているものさえ、十分に書くことはできていない。

元も子もないが、自分が書きたいことと、読み手の求めるものの間で、ある程度バランスを取ることが重要なのだろう。どんなものを書くにせよ、読み手を意識せずに書かれる文章はない。できるだけ読みやすい構成に仕上げるとか、伝えたいことを明確にするとか、それらは自分のためである以上に、画面の向こう側にいる人たちのために行っている作業だし、これを忘れて書きたいことだけを連ねてしまうと、他人はおろか自分にも訳のわからないものが出来上がってしまう。だから、僕は決して、承認欲求を完全に抹消することが正しいとは考えていないし、そんなのは人間である以上不可能なことだ。承認欲求をパワーにして行動できるなら、それもそれでよいと思う。問題なのは、その奴隷になってしまうことだ。

経験則として、他人に迎合させすぎた文章は大抵つまらない。僕自身、高校時代まで、他人に迎合するような、相手に合わせることを大切にしすぎるような性格をしていて、それが文章にも表れていた。これを書いたら面白いだろう、というのはあったが、自信がなく、他人の機嫌ばかりうかがう文章になってしまっていた。高校時代に書いた小論文などは大抵そんな感じで、面白味もなく、書き手が消えてしまっている文章だった。先生が、「自分の意見を書きなさい」とコメントしてくれた意味が、今ならわかる。

結局のところ、自分の書きたいことでしか、よい文章は書けない。反対に言えば、よい作品は、少なくともその一部分に、自分の魂のようなもの(あまりにも陳腐な表現で恐縮だが。)が確実に入っていると思う。だから、その「核」の部分は決して消さず、なおかつ、読み手を裏切らない、あるいは、よい意味で裏切るようなものが書けたら最高だろう。とはいえ、そんなものが書けた試しはないし、これからも書けるかどうか自信がない。

最終的に言いたいことは、決して承認欲求の奴隷になってはいけないということだ。たしかに、誰かにスキしてもらえたら嬉しいし、認められたいという気持ちは十分にある。しかし、それが書きたいことよりも先行してしまうことは、やはり問題なのではないかと思うのである。それは文章に限らず、社会のさまざまな事象に言えることで、他人に認められたいという気持ちだけで何かを成し遂げられることなど、ほとんどない。それに、僕自身の経験として、他人に認められたいと思ってした行動よりも、自分からしたいと思ってした行動のほうがなぜか記憶に残っているし、なんなら、他人からの評価を得やすいのはそっちのような気がする。

また、誰かに好かれたいと思って近づいてもなぜか好かれなかったり、むしろ、自分がその人にとって空気になってしまうようなことがあるが、反対に、全く意識していなかった人にはなぜか好かれてしまうようなこともある。これは、他人を意識しすぎるとうまくいかないことの一例ではないだろうか。まあ、認識の問題だと言われたらそうなのかもしれないけれど、経験則としては、そうなのである。他人に認められたいという思いから生じる行動は、いろいろと難しいことが多いというのが、僕自身の実感なのだ。(そうじゃないという人もいるかもしれないし、そういう人を否定するつもりはない。)

こうして書いた文章が、もし誰かの目に留まり、なにかの手違いで評価されたなら、それほど嬉しいことはない。でも、やはり根底にあるのは「これを書きたい」と一度でも思った自分自身の欲求であり、できる限り、そちらを大事にしていきたいと思うのである。と、自戒の意味も込めて記しておく。

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