見出し画像

群青


「被災者」という言葉の重みに
少し狼狽えてしまった。

出身地を答えたら
「被災者だったんですね」という言葉が
私の元に返ってきた。

?が私の頭の上には浮かんでいた。

たしかに
いわゆる「被災地」と
呼ばれるところに住んではいたけれど、
被害は少なく、
大切な人もモノも失ってはいない。
だから、
自分を被災者だと思ったことはなくて。

だからこその違和感。
なんなら申し訳なさも感じていた。

だけど、
「東日本大地震」という出来事が
何も私の人生にもたらしていないともいいきれない。

12年経って
初めて考えてみることにした。

「私にとっての東日本大震災」を。


2011.3.11     2:46

放課後
子供たちの声で賑わう教室を
大きな揺れが襲った。


「地震だねー」
いつも通り少し揺れるだけ
なんて考えは覆されて。

そこにいる全員が気付いた
「この揺れは尋常じゃない」ということ。
先生の慌てた声に急かされて、
すぐさま机の下に隠れた。

そして、余震が続く中で、
必死に走って校庭に出た。
避難訓練の経路なんてまったく役に立たなかった。

揺れていた時間は
きっと1分ぐらいだったはずなのに
ものすごく長く感じたこと。
周りの恐怖の表情。音。
私の手をきゅっと握った友達の手の震え。

今でも、私は忘れられない。


見える景色は違うものに

震災のニュースが続くテレビ番組は
2つの衝撃的な映像を私の元に届けた。

1つは、
大きな黒い波が街を、人を、飲み込む映像。

それが「津波」であるということ。
多くの命を奪ったこと。

信じられなくて、
それが事実であるということを
ちゃんと理解するのに時間がかかった。

そして、もう1つは、
福島第一原子力発電所の爆発。
聞き馴染みのない「放射能」という言葉ともに。 

去年、知ったとことだが
この映像はたった1つのカメラだけが
納めていた貴重な映像で。
この映像がなければ、
あの事故の重大さは伝わらなかっただろう。

「放射能」というやつは、危ないモノらしく

毎日の天気予報と共に
放射線量が発表されるようになった。
外での体育も、水泳も、
窓を開けることも禁止された。
放射線バッチというよくわからないモノをつけて
甲状腺検査という謎の検査を受けた。

そして、ほんの少しだけ私も避難した。

「春休み、遊ぼうね」
なんて約束は果たされないまま、
春休みが過ぎた。

春休みが過ぎても学校には行けず、
外にも出れず、ただ日々を過ごした。


響けこの歌声

そこから月日はすぎて、
私たちは普通に学校に通えるようになった。

部活も普通に再開した。
といっても、相変わらず練習はサボりがちで。笑

その中で、
「復興支援コンサート」というものに
出演することになった。

最初はその重みもよくわからず、
ただ歌っていた。言われるがまま。

ある日の演奏帰りに

「あなたたちの演奏に元気をもらいました。
ありがとう」

そんな声をかけてくれた方がいた。

私たちの音楽は誰かにとっての希望だったのだ。


涙してくださる方もたくさん見かけたし、
一緒に演奏できるのが
嬉しいとも言ってもらえたり。

音楽がもたらすつながりは、奇跡は、
練習をサボりがちだった私の心を動かした。

あの頃から
私はちゃんと練習に行くようになった。
合唱が、好きになった。

それから
引退するまでの8年間。
何度も、何度も
多くの復興支援コンサートに
出演させていただいた。

合唱にのめり込むようになった私は、
いつもステージに立つ時に
思うようになっていた。

「心を込めたハーモニー
誰かの心に響きますように」と。

だから、本番前、
手に書いて飲み込むのは
「人」ではなくて「心」だった。


人が感動して涙を流す瞬間
生きていく活力を得る瞬間

そんな瞬間、人は強くて美しい表情になる

それをあのステージは私に教えてくれた。

この瞬間が、表情が私は大好きだ。
合唱を辞めた今でも、
この瞬間を創りたいと思っている。


3月の風に吹かれて

そして、当時ランドセルを背負っていた私は
この春社会人になる。

仕事は、「結婚式を創ること」を選んだ。

私にとって、
結婚式は「人生」だと思っている。

私が考える人生とは、
自己と他者で成り立つ。

自己と向き合う時間。
他者と向き合い、世界を広げる時間。

この2つが、人生における大切な要素。
そう思っている。

まさに
前者は挙式、後者は披露宴のことを
言ってるのではないか?

なんてことを私は考えている。


あれから12年の日が私の中を過ぎて


あの頃の日々が私に
「人が生きていく」ということを
教えてくれた気がしている。


コンビニやスーパーの棚からは
商品が消えた。
その商品を取り合う人たちもいた。

避難所で起きた
酷い話も聞いたことがある。

出張で地元を離れて
帰ってきた父の車には
落書きがされ、
傷がつけられていた。

そこには人の闇があった。

生きていくためには仕方ない、
そんな言葉と共に。

だけど、その一方で

あの日の帰り
帰った時に家族にハグされたこと
きっと私だけじゃない
家族の無事を願う人々で、
誰かを想う愛で溢れていた

止まってしまった水道
井戸水を分けあったり、
一緒に水を汲みに行ったり、
分け合う心があった

寒い中で、身を寄せ合い
助け合う人々がいた

転校が決まった子に
何かできないかとたくさん考えて
開いた小さなお別れ会
いまだにその時もらった手紙を
私は持っている

私が多くのステージに立つことができたのは
音楽のチカラで復興を支援したい
そんな多くの人の気持ちがあったからだ

そこにはたしかに人の光があった。



当たり前、なんかない。
ある日、突然失う。

それくらい人間という生き物は、脆い。
だけど、強い。そして、尊い。

人は大きな絶望に飲まれそうな時、
誰かと手を取り合って、
希望を信じて生きていくのだ。

そんな「人生」を、結婚式から創りたい。


今でも想う


私の元には、
今年も甲状腺検査のおしらせが届くように
きっとあの震災も続いていく。

きっと私の知らないところでは、
まだ戦っている人がいる。

だから、私は今日も紡いでいきたい。
結婚式からあなたの人生を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?