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ハムスターが亡くなったこと、そして死について思うこと。

10月9日の朝、我家に来てから2ヶ月経たない短い期間でサファイアブルーのハムスター「あずき」が亡くなった。生後5ヶ月、人間の年齢でいうと20歳くらいだろうか。

小学校2年の子供が、あずきの事を「あずちゃん」と呼び、毎日写真を撮ったり手のひらに載せて遊んだり、上手に特徴を捉えて絵や漫画を書いてたりと、特にあずきを可愛がっていたので、相当落ち込んでいた…

かく言う僕自身も、あずきの死にあたりとても気分が落ち込んだし、気持ち良さそうに眠るような亡骸を手のひらに乗せて、こんなに可愛いのにもう2度と目を開けないのだ一緒に遊べないのだと思うとボロボロと男泣きをしてしまった。たとえ愛と身体を分かち合った女と別れてもこんな悲しい気持ちになんてなったりしないのに。


ここ3年くらいの間、近しい人たちが次々と亡くなった。自分の父親、祖父、取引先の社長や工場長、知り合いの子供、そしてテレビの中の有名な人たちも相次いで亡くなり、平成最後感を醸しだしている。

いくつかの近しい人たちの死を経験し、死について漠然と思っていたことがとてもリアルに感じざるを得なくなった。自分の親父は病気で2年の闘病の後なくなったが、当時はそんな死に方なんて酷過ぎると思っていたが近しい人の中には朝出勤時に車にはねられ突然この世を去った人もいる。そう思うと余命と言われた2年間を完全に全うし、本人からの人生の引継ぎや親孝行も存分に出来たことをとても嬉しく思う。死に対して自分自身で思うことと、家族や回りの人間が思うこととは剥離があるとも感じた。相続、葬儀など本人がどうにも出来ない事柄を周りの人間が粛々と進めていかなくてはならない。いくつかの書籍や偉い人の言葉で、人は1人で生まれ1人で死んでいくので孤独であると読んだが、僕は逆に死ぬまで、いや死んでからも、ひとは孤独ではいられないのかもしれないと思った。

小学校2年生の娘の話に戻る。もちろん彼女は死について「恐くて寂しいもの」と、僕たちが子供の頃漠然と感じていたように思っている。僕は親父の死に際し、その死を受け入れるためには死に対して意味づけを行うことが必要だと感じた。大きな枠組みで言うと「次に必要なお役目があるから、この世から卒業する」のだ、ということ。本来、死ぬことに意味なんてないのだけど、意味づけがないと頭で理解することができない。理解できないから恐くて寂しい。仕事だってそうだ。これをやる意味はなんだ、自分の貢献とはなんだと意味を見つけたがる、見出したがる。人間はそこに意味やストーリーがないと何も出来ない。

「私がちゃんと可愛がってあげなかったからはやくしんじゃったんだね」

子供の自己犠牲や自己否定をみていると親としてはとても心が痛む。ちがう、たまたまそういう運命だっただけだ。そう言っても理解しないだろう。しかし、そういう自虐方向の意味づけはいけない。

あずきがなくなった日の夜、一緒にお風呂へ入って話した。「パパは今日は1日ずっと泣きそうだったよ」「あたしも!机に座ってて急に悲しくなるの…」親としてはそういう感受性豊かな子に育ってくれて嬉しい。

「…それなのに、〇〇君に叩かれたりいじめられて余計に悲しいんだ…ちょっとなやんでるんだよ」それがいじめであるかのジャッジは、親として学校を通して相手の子供と親へ真意を問いただし、こちらに落ち度があるなら是正するということで解決していくとして。

「あ、パパ今わかった。いっぱい可愛がってもらったあずちゃんはさ、今度はお前のこと助けてあげたくて神様になったんだよ。そしたら学校にもついてってあげられて、見守ってあげられるじゃん」「えー、それはすごく嬉しいけど…でもホントはあたしがもっとあずちゃんを見守りたかったよ」「でも、あずちゃんはお前が好きだから、今度はあずちゃんが見守りたいと思ってくれたんだよ」と、2人で風呂場で大泣きしてしまった。その晩は、いつも一人で寝床に着く娘が一緒に寝たいというので同じ布団でしばらく横になっていたが、寂しいけど頑張ろうね、と僕が伝えると、わかったと言い自分の布団へ戻っていった。

きっと彼女の中で、愛しいものの死を受け入れようとしてくれたんじゃないかと思う。

愛しいものの死は、決して無駄死にではなく自分にとって何かしらの意味があったんだ、と思うことで命や時間を越えた両者の繋がりを以て昇華されるものだと思った。


この文章をあずきへのレクイエムとさせてもらいたい。あっという間だったけどものすごく楽しくて愛おしい時間を過ごさせてくれたことありがとう。

rest in peace あずちゃん :)

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