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“いつか、また”はいつか終わる。

どうも、はじめまして。
ハルと言います。

今回の記事が初めての投稿です!
拙い文章ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです!

2023年が終わり、早いもので2024年が始まって1ヶ月半が経ちました。
(年々時間が経つのが早くなってる気がする…)
さて僕にとって2023年は、生きている中で一番感情が渦巻いた年となった気がします。そのことについて書いていけたらなと思います。



タイトルの通り「”いつか、また”はいつか終わる」ということで本題にはいっていきます。

「いつか」という言葉は辞書で調べると

1,いつだと正確には思い出せないが、過去のある時。
2,いつだとは決まらないが、将来のある時。そのうちに。

グーグル日本語辞書

という意味が出てきます。

いつか…
僕はこの言葉の儚さを思い知ることとなりました。

それは2023年冬のこと。
僕の大好きなバンドのメンバーが亡くなったのです。

あまりにも突然のことで、3日間泣き続けた記憶しかありません。
4日目は泣いても泣いても涙が出なくなりました。
涙が枯れるとはまさにこのことかと身をもって知りました。

というのも亡くなる1か月前にライブがあったのですが、仕事で行けなくなりすごく落ち込んでいるさなかに起こった出来事でした。

もうメンバー全員がそろった姿は見れない。もしかしたら解散してしまうかもしれない。もし解散しなくても本来の姿ではなくなってしまう…。
そんな様々な思考が頭の中を巡り、それから一周回って、ライブに行けなかった後悔が大波のように押し寄せてきたのです。

辛い時も楽しい時も、そのバンドの音楽を聴いて頑張ってきた僕にとって生きる糧を失った気がしました。

ライブに行けなくなった時はショックでしたが、同時に「また”いつか”いけるやろ」とも思ったのです。

その、また”いつか”が来ないことになろうとは知らずに…


それから日は経ち、


2023年夏のこと。

仕事中に家族LINEに一件の通知が。
普段仕事中はほとんど見ないのですがその日はなぜか通知が来たと同時にメッセージを確認しました。

「〇〇(実家で飼ってる犬)が永眠しました」

…。

その時はショックのあまりスマホを持っていた手が震えたのが印象に残っています。
不思議と涙は出なかったです。

その日の仕事はなんなくこなし、帰宅し、部屋に戻ると同時に大雨のように涙があふれてきました。
18年間ともにした家族が亡くなったのです。

急に冷静になりもう会えないことが分かり、大人になり初めて子供のように大声を出して泣きました。泣きました。泣いて泣いて泣きまくりました。

いつの間にか寝落ちしていて、朝目が覚めて夢か!と思いスマホを見て、夢じゃないことに気付きまた泣きました。

3日間はほんとにずっと泣いていたと思います。
4日目は冬の時同様涙が枯れて出なくなりました。

僕の仕事柄上実家にはすぐに帰れず、帰れたのは永眠してから2か月後のことで、当然火葬も終わり、実家には遺影とお骨が机の上に置いてあるだけでした。

仕事に行く前実家を出発する時には、死ぬほど撫でてから出発するのですが、亡くなる前の実家出発時はドタバタで忙しく頭を軽く撫でる程度で出ました。

「”また”帰ってきたら撫でるからね」。そう言い残して出発しました。


”また”が二度とくることはありませんでした…。




「いつか会おうね」
「また会おうね」

”いつか”
”また”

これらの言葉は、一見明るい前向きな言葉のように感じるかもしれません。
またこの先もずっとずっと当たり前に続いていくような…。

でも、”いつか” ”また”には限りがあります。

僕は、この言葉の儚さに気付かされました。

限りある儚さを大切にしていこう、
そう心に決めた年となりました。


長々と書いてきましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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