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にんじんカレーの真相

カレーは、子どもに人気のあるメニューとして知られている。けれど、私は子どもの頃からカレーが苦手だった。

母のカレーを美味しいと思えなかったからだ。

子どもの頃、母のつくるカレーにはなぜか、大量のにんじんが入っていた。じゃがいもや玉ねぎの量と比べてもはるかに多い。

見た目からして「ほぼ、にんじん」という印象を与えるのだ。にんじんのオレンジ色とカレーの黄土色がバキバキのコントラストをなすそれは、私の目には珍妙に映った。そしてなにより、にんじんが主張しすぎる味そのものがダメだった。

幼い頃からにんじんが好きではなかった私にとって、その「にんじんカレー」とでも呼ぶべき食べものは、敵のような存在だった。とはいえ、父が「お母さんが頑張ってつくってくれたからさ」などと言い聞かせるので、私はしぶしぶ母のカレーを食べていた。

そうこうするうちに、私がカレーを好きではないことに気づいたのか、母はだんだんとそれをつくらなくなり、私も大人になった。成人以降、自ら進んでカレーを食べたことはない。完全にトラウマになっていた。

しかし、この7月のこと。

私が実家を訪れると、母がカレーをつくっていた。「お父さんと簡単にカレーで済ませようと思って」と。

どれどれとお皿をのぞき込むと、にんじんは少ししか入っていない。いたって常識的なボリュームである。

……あれ?

「ねぇ、にんじん、少ししか入ってないね」

すると、母は笑いながら言った。

「ちなみちゃんのために入れてただけよ、あのにんじんは」

私が怪訝な顔をしていると、母はさらに続けた。

「あの頃、にんじんは目にいいって聞いて、すがるみたいに信じこんでしまったんよね。ちなみちゃんの左目が見えるようなったらええなぁ、って」

そういうことだったのか。なんだかとても申し訳ない気持ちになった。

私には先天性の眼疾患があり、物心ついた頃には左目の視力はなかった。かと言って、不自由はそれほどなかったし、それなりに楽しい人生を送ってきた。目のことは、私を構成する一要素にすぎず、とくに暗い一面というわけではない。

けれど、母は、娘の目が少しでも良くなりはしないかと心を砕いてくれていたのだ。

にんじんが視力回復に有効だなんて聞いて、すがってしまうくらいに。目の健康維持に効果があるらしいにんじんも、さすがに失明した目に光を取り戻す力はないだろう。

母は決して盲信的な人ではない。私の大学時代からの友人は「食えないおばさんってイメージ」と評したほどだ。その母が、にんじんという藁をつかんで試行錯誤していたことをはじめて知った。

あの強烈なにんじんカレーには母なりの愛情がこもっていた。そう思うと、なんだか膝から力が抜けた。椅子に座って足をぶらぶらさせながら、私は言った。

「そういうことやったん? 私、あのカレーのこと、不思議やと思ってたの」

母は、

「カレーならにんじん食べてくれるかと思ったんやけど、美味しくなかったやろ? ごめんやでー」

と言い、にやりと笑った。

私と母は仲がいいように見えて、実はわずかに心の距離がある親子だ。少なくとも私はそう思っている。

やや独善的で理屈っぽい母と、なにごとにも感覚が先行してしまう私とは、ときに衝突することがあった。父とはわかり合えることが、母とはわかり合えない。そんな経験を、何度もしてきた。

けれど、にんじんカレーの真相は、母との距離を縮めてくれた気がする。

私も娘たちを産み、親になった。子が何かしらの病を持っていたら、自分のことはさしおいて尽くしたくなる気持ちが、実感をもとに推しはかれるようになった。

母がどんな気持ちでお鍋に大量のにんじんを投入していたか。美味しいと言われないだろうカレーをつくる気持ちはどんなものだったか。私も母親になってみて、少しだけわかる。母の性格からすると「こんなふうに産んでごめんね」なんて、自分を責める夜もあったかもしれない。

私と母とのわずかな心の距離は、簡単に埋まるものではなさそうだし、また衝突することもあるだろう。でも、母にきちんと「ありがとう」を伝えたくなった。私がのほほんと生きてこられたのは、間違いなく母の愛情と試行錯誤のおかげだ。

今度、両親を呼んで、みんなでカレーを食べようと思う。きっと美味しく食べられる気がする。

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