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【短編小説】夏ーあるいはとても個人的なある夜(2/2)

 前回の続きです。やはり季節外れの夏の夜の小説です。
 前回は一度も猫が出てきませんでしたが、この短編は、夏の夜に庭先に猫がやってきた、という話になっています。

 よろしければ、前編から読んでいただければうれしい限りです。

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 再び少し強めの風が吹込み、小説のページがぺらりとめくれた。額の汗がわずかに蒸発する。
 彼は生温くなったビールをもう一口飲んだ。
 と、そのとき、ふと視界の隅に、何か揺らめくようなものがよぎった。
 見ると、庭先に一匹の猫がいた。まだ若い猫で、少し警戒の光を目に宿らせながら、じっと彼の方を見つめていた。
 敷石の端に、ちょうど頭と体半分を月明かりのもとに出し、半分は暗い影に入っている。
 その猫の模様はキジトラという柄で、日本では比較的多い種類の猫だ。きれいな毛並みで、端正な顔をしてはいるが、おそらくは野良猫だろう。そしてその瞳には、警戒心とともに、何かしらの期待感のようなものを含んでいた。

 表の通りからは、花火をする子どもたちの無邪気なはしゃぎ声が聞こえてくる。
 つけっぱなしのテレビからは、相変わらず野球中継が続いている。
 そんな、どこにでもある夏の夜だった。

 猫はじっと彼を見ていた。
 彼は、ビールを一口飲むと、猫に向かって舌をならしてみた。
 すると、猫はピンと耳を立て、つかの間左右を見回したあと、少しだけ彼の方に寄ってきた。尻尾をまっすぐに立てながら、二三歩。窓際に近づき、敷石の上に音もなく座った。
 体全体が月明かりの中に入り、その体の下に淡い影を作っている。
 そしてその猫は、小さくひとつ、にゃおと鳴いた。
 とび色の瞳がとても美しかった。

 彼は、台所から牛乳を皿に入れて持ってきた。
 猫は敷石の上でじっと待っていたが、網戸を少し開けると、警戒して二三歩影の方まで後ずさった。
 しかし、牛乳の入った皿を敷石の上に置くと、怯えるように身を縮こませながらも、ゆっくりと鼻先を皿の方へ近づけてきたのだった。

   ※  ※  ※

 彼は法学部の学生だった。
 大学では、適当に授業に出席し、それ以外ではひとりで本を読んだり、友人とビールばかりを飲んで過ごしていた。
 同回生の多くは、女の子にもてるのが目的でスポーツ系のサークルに入り、肌を小麦色ーーもしくはそれ以上ーーに染めることに懸命になっていたし、演劇論を熱く闘わせている演劇部の学生などを見ると、何か自分とは別の人種のように彼は感じた。
 同じゼミに、もみあげと髭がきれいにつながった双子がいた。彼らは宅建の資格を取るために熱心にダブルスクールに通っていた。双子は、彼に対して何故か敵意さえ抱くことがあるようだった。
 学食で彼らとコーヒーを飲んでいたときーー双子はたいていセットで行動していたーー、突然彼らは、もみあげと髭の境目らしきところを激しく揺らしながら、
「正直、俺たちはお前のことがうらやましいよ!」
 と言い捨てて去っていったことがあった。
 自分のどこがうらやましいのか、彼にはまるで分らなかった。
 しかし、ふたりしてあれほどの啖呵を切るくらいだから、よっぽど自分にはあの双子をいらだたせる何かがあったのだろう、と彼は思った。
 
 大学ではあまり多くの人と交わることのなかった彼だが、文芸サークルだけが人とつながることのできる唯一の窓のような存在だった。
 文芸サークルには、ひとり妙に猫に詳しい女の子がいた--詳しいという言い方が正しければではあるが。彼女はショートヘアーがとてもよく似合う、まつ毛の長い女の子だ。
 彼女と話すときは、たいてい彼女ひとりが話していた。そして、話題はたいてい、猫のことだった。
 キジトラという猫の柄のことを教えてくれたのも彼女だった。
 「たいていの野良猫は、夜の七時から八時の間には猫の集会に行ってるんだけど、知ってた?」
 彼女は言った。
 「知らない。」と彼。
 「猫たちは何を思って集まるんだろう?」
 「何も思っていないよ。」と、彼女。
 「お年寄りって、毎晩夜中か明け方になると勝手に目が覚めるじゃない。それとおんなじで、猫たちも、時間が来ると自動的に集会に向かうことになってるの。」
 「自動的になんだね?」
 「そう。自動的に、無意識的に・・・」
 「うん。」
 「そこではいろんなことを決めてるんだ。」
 「たとえばどんな?」
 「そうだね、猫たちはいつもとても重要なことを決めているんだ。たとえば、彼らの仕事には、地球の夜と昼を入れ替えるという仕事がある。昼と夜とを入れ替えるには、誰かが地球を回転させるボタンを押さなければならない。その誰かを猫たちが毎晩集まって決めてるんだ。」
 彼女は少し間をあけて、彼の顔をじっと見つめた。
 「彼らがいないと、夜のブダペストはいつまでたっても夜のままだし、昼のヘルシンキはいつまでたっても昼のままなの。わかるでしよ。誰かがやらないといけない仕事を、猫たちは引き受けているわけ。」
 「しかも無意識に。」
 「そう、無意識的に。」
 「なんだかとても哲学的な話だね」
 「そうかしら?」
  彼女はとてもユニークで、話し方がちょっとだけ変わっていて、そしてとても魅力的だった。

   ※  ※  ※

 彼は再び小説を読み始めた。トーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」、手のひらで隠れてしまうくらい小さな文庫本だった。何度も読み返すうちに表紙はかなりくたびれていた。
 小説を読みながら、時々敷石の上の猫を見やる。猫は、肩を少し盛り上がらせながら牛乳をなめている。
 しばらくすると、猫は牛乳を飲むのをやめ、上目遣いに彼の方を見上げ、再びか細い声で鳴いた。月明かりの下で色を変えるその瞳は、彼に何かを望むような、そして時には狡猾な色さえ宿らせるような気がした。
 その瞳に、彼の心は微妙にかき乱された。
 彼はなんとなく居心地の悪さを覚え、ビールを口に流し込んだ。もう気が抜けていて、すっかりぬるくなってしまっていた。
 
 外では、子供たちの花火をするはしゃいだ声、そして父のうれしそうな声が、どこか懐かしい思い出のように響いている。
 台所では、母と二人の姉が話し続けていた。まるで、深夜のラジオ放送のように。
 そしてなぜか、妹の方はしゃくりあげるように泣いていた。
 
 彼は、猫を横目に小説に視線を落とす。
 猫はいずれ、水たまりのような影だけを残して、自分の前を去っていくだろう。猫のいる世界と猫のいなくなった世界、そこには何か決定的な違いがあるように彼は感じた。
 
 彼は、ごろりと仰向けに寝転び、何かを求めるように空を見上げた。 
 夏の夜空に、白い月が浮かんでいた。

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 以前に書いたものから少しだけ手直ししましたが、月日がたっているせいか、どこか自分が書いた作品ではないもののようにも感じてしまいました。
 日々、自分も変化しているってことでしょうかね?

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました(^^)/

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