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やり残した宿題

「恭子ちゃん、ほんとに私も行っていいの?」
「いいから、いいから、誰でも連れてきていいって先生が言ってたよ。」

恭子(仮名)に連れられて時代劇に出てきそうな古い瓦屋根の門をくぐった。そこは、当時小学5年生だった私が暮らしていた借家の近くにある、古い大きなお屋敷だった。

塀で囲まれた敷地内に入ると、真正面に鎮座する重々しい玄関やそのまわりのよく手入れされた庭木の佇まいに、自分があまりにも場違いな気がして怖くなった。

恭子は、すぐ右手に建っているプレハブの別棟へ駆けていき、「こんにちは」と言いながら、銀色のドアノブを掴んで中に入っていく。私も慌てて、その後ろに恐る恐る続いた。 

無機質なドアの向こう側には、夢のような光景が広がっていた。私は思わず息を呑んだ。二十畳くらいの部屋の四方すべての壁には高い棚が作られていて、そこにぎっしりと本が並んでいたのだ。
ドアの真正面に置かれた事務机で本を読んでいた初老の女性が、鼻の先まで下げている眼鏡の上から険しい視線を私に向けた。

「初めて来た子やね。あなたは本が好きなの?」

その問いに私が黙ってうなずくと、

「どれでも好きな本を持って行きなさい。貸し出しカードの書き方は恭子さんに聞いたらいいから。」

と言って、女性はまた本に目を落とした。


そこは「文庫」と子供たちから呼ばれている書道教室だった。私は書道を習うわけでもないのに、ただ本が読みたくて足しげくこの文庫に通うようになった。
女性(以降、先生と呼びます)はそのプレパブで書道を教えながら、図書館のようなこともやっていた。自費で本を購入し、地域の子どもたちが自由に本を借りられるよう、文庫を開放していたのだ。

先生はそこで勉強も教えていた。その勉強会は、教材費以外はお金を徴収しない、いわば「ボランティアの塾」だった。いつの間にか私も、勉強会にも参加するようになった。


小さく痩せた身体、白髪をひとつに束ね、常に凛とした立ち振る舞いだった先生は、誰にも公平に厳しい人だった。「休む」や「怠ける」が大嫌いだ。出された宿題をやっていかないと、「やれなかったのではなく、やらなかっただけです。」と、厳しく叱る。
臆病で生真面目だった私は、先生から出された宿題を忘れたことはない。もともと私は本が好きで、本もたくさん読むので、先生によく褒めてもらえた。私はそれが嬉しくて、片っ端から本を読んだ。

自分に自信がなかった私を、初めて認めてくれた先生だった。
小学校を卒業するころには、私は心から先生を慕うようになっていた。

先生はいわさきちひろさんの絵が好きだ。だから私も、好んで彼女の描いた絵本を読んだ。小学校の卒業祝いには、先生からいわさきちひろさんの描いた「ひさの星」という絵本をいただいた。それは先生が一番好きな絵本だった。    

実物です



絵本の主人公は、「自分の大事よりも、誰かの大事を大事にするような子」だ。優しくて憂いのある絵の印象が、笑ったときの先生の雰囲気と重なる。そして少し不器用な生き方の主人公が、なぜか先生に似ている気がして、子供心に切なく思った覚えがある。


勉強会に参加できるのは中学生までだった。我が家が引っ越しをして違う街に移ったことも重なり、高校に入ると先生とほとんど会えなくなった。年に一度の年賀状が、唯一の近況報告の手段になっていた。
それでも、進学や就職、結婚など、人生の節目には先生に手紙を書いた。先生からも達筆な返事が届く。手紙の最後には「琲音さん、本を読みなさい。」と、必ずその一文が添えられていた。


先生から一番長い手紙をもらったのは、私が二女を出産し、二女に重い障がいがあることを手紙で伝えたときだった。
その時の私は、どう生きていけばいいかを見失いかけていた。どんな手紙を書いたのかは覚えていないが、きっと先生に救いを求めていたのだと思う。

先生からの返事は、私の想像を超えるような内容だった。


先生は、青年になられた次男を亡くされていた。そのときのことが便箋三枚にびっしりと書かれていた。

心を病まれた次男との、苦悩の日々。
次男を失ってからの無の日々。
自分を責めて、食べることもやめるほどに自分をいじめ抜いた先生は、身近な誰かに頼るのではなく、本や本の作者に救いを求めた。
そして、地域の子どもの教育に、自分の生きる意味や希望を抱いた。


そんな先生の重くて長い月日を、私はその手紙で初めて知ることになった。  


先生のなかにある「ひさの星」の世界観は、この悲しい経験にあったのだ。
私への手紙の文中に

「今をはっきり受けとめて、強く生きてください。」

という言葉があった。

どんなあったかい慰めも、どんな耳に優しい言葉にも、嫌悪感を持ってしまうくらいに、当時の私は素直な柔らかさを失っていた。そんな私には、先生の「しっかり生きなさい」という強い声が真っ直ぐ響き、暗い部屋から私を引っ張り出しててくれたような気がした。


その5年後、私は三人目の子を妊娠した。二女の病気を考えると、次の出産は簡単ではなかったが、悩んだ末に、授かった命を生み育てる決意をした。
先生には、子供が生まれてから私の気持ちをゆっくりと話したいと思っていた。

秋に男の子が生まれ、子どもの写真を入れた年賀状で先生に家族が増えたことを報告した。妊娠も伝えていなかったので、きっと驚かれるだろうと思った。
でも、例年なら届くはずの先生からの年賀状が届かない。

「お身体を壊されているのだろうか」

心がざわざわする。何でも考え過ぎる私の思い過ごしであることを祈った。


その数日後に喪中はがきが届いた。送り主は先生の長男だった。


私が三人目の子を産んだその日に、先生は他界されていた。


驚きと悲しみではがきを握りしめて、泣きながら後悔した。
なんで、息子のことを先生に話さなかったんだろう。
なんで、会いに行かなかったんだろう。


悔やみながらも、偶然過ぎる「生と死」の重なりや、不思議な「縁」のようなものを感じて、自分に都合のいい考えで私は自分の悲しみを抑えつけた。

「息子が元気に生まれるよう、先生が守ってくれたのかもしれない」と。



あの日生まれた長男は、来月には19歳になる。つまり、先生が旅立たれてもうすぐ19年。
空の上から、先生はどんなふうに今の私を見ておられるのだろうか。



先日、本棚の奥から先生に借りたままの本が出てきた。
もう20年以上前になるが、長女が4歳で、二女がまだ1歳のころ、先生に娘たちを会わせたくて、一度だけ文庫を訪れたことがある。そのときに、

「今の琲音さんにはこの本がいいと思うから読みなさい。」

と先生から手渡された「ブッダ」の本だった。

中村元さんの作品2冊



子育ての忙しさを言い訳にして、読むのを先送りにしたままずっと忘れていた。先生からの宿題を見つけ、約20年ぶりに先生を近くに感じた。

「琲音さん、やれなかったのではなく、やらなかっただけです。」

そんな先生の声が聞こえた気がした。









またまた長い文なりました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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