見出し画像

ドストエフスキー『罪と罰』はなぜ面白いのか⑨ 

前回はこちら↓

シリーズ全体はこれ↓

 「なぜ面白いのか」なんて大胆なタイトルをつけてみた。いや、少しでも読んでくれる人を増やそうと思いましてね・・・。


 さて、ラスコーリニコフが酒場で飲んでいると、青年将校たちの話し声が聞こえてくる。かれらはまさにラスコーリニコフが殺人を計画している、金貸しの老婆(アリョーシャ・イワ―ノヴナ)について話をしている。すこし長くなるが、引用しよう。

「ところがその一方では、若くてぴちぴちした連中が、だれの援助もないために、みすみす身を滅ぼしている。それも何千人となく、いたるところでだ! 修道院へ寄付される婆さんの金があれば、何百、何千という立派な事業や計画を、ものにすることができる! 何百、何千という人たちを正業につかせ、何十という家族を貧困から、零落から、滅亡から、堕落から、性病院化から救い出せる――これがみんな、彼女の金でできるんだ。
じゃ彼女を殺して、その金を奪ったらどうだ? そしてその金をもとに、全人類の共同の事業に一身を捧げるのさ。きみはどう思う、ひとつのちっぽけな犯罪は数千の善行によって償えないものだろうか? ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救うんだ。ひとつの死と百の生命をとりかえる――こいつは算術じゃないか! それにいっさいを秤にかけた場合、この肺病やみの、おろかないじわる婆さんの生命がそれだけにつくだろう? 虱かごきぶりの生命がいいところだ。いや、それだけの値打ちもない。だってこの婆さんは有害なんだからな。」

『罪と罰』岩波文庫 p.139

 みなさんはどう思われるだろうか? おそらく、「いや、だとしても流石に殺すのはダメでしょ……」となるだろう。私もそう思う。しかし、現実には、心の奥底では(あるいは堂々と!)この考えに賛同している人というのは結構いるのだ。

 ここで書かれている通り、そして以前にも触れたが、この金貸しの老婆はいわば悪人を象徴している。この老婆の内心は一切描かれず、ただいかにひどい人物かが強調されている。で、その悪人一人を殺すことで何人もの人間を救えるとしたら……? 

 たとえばいま、イスラエルのネタニヤフ首相を、あるいはロシアのプーチン大統領を殺す権利を手にしたとしよう。彼らの存在によって自国の人間は戦場に駆り出され、敵国の人間は蹂躙されている。もし彼らを殺せる状況にあるとしたら? 殺すべきだ、と思う人は少なくないだろう。そうすれば少なくとも目下の戦闘は停止され、助かる命があるのだから。

 この考え方は本文にもあるように、算術だ。前にも「パーセント」という言葉が出てきたが、それと似た話だろう。

 実際、世の中は算術で動いている。トリアージというのは、救急現場での命の優先順位だ。ここで生命は、不等号によって関係づけられる。上の引用で言われていることは、それの極端な形といえるだろう。トリアージはせざるをえないから、殺人とは違うという意見があるかもしれない。それはその通りだが、トリアージによって死んでしまった方の遺族は、やはり見捨てられたと感じることだろう。それにいずれのケースでも、犠牲者がゼロということはありえず、結局選択しなくてはいけないのだ。

 「悪人は社会のために殺しても良い」というこの考えは、一見青臭い過激な主張のようでいて、実はきわめて俗情に根付いた考えなのではないだろうか。

 ツイッターで「ロリコン」へのバッシングをみれば、このことは明らかだろう。まだ実害をもたらしてすらいない、単に小さい子供が性的欲望の対象であるだけの人々でさえ、危険で有害な存在として扱われているのだ。ましてや社会に実害をもたらしている婆さんなんて、、、とならないだろうか?

 しかし肝心なことは、ここではその婆さんの実存が無視されているということだ。これらは「論理的に」考えた場合の話だ。しかし人間の生命はそうやって数字で考えていいものなのか? ドストエフスキーのこの「数字⇔実存」の関係を意識している気がする。

 では、もう少し先をみてみよう。



 「もちろん、彼女は生きるに値しないさ」将校が口をはさんだ。「しかし、それが自然というものじゃないか」
 「いや、きみ、自然を修正し、正しく導くのが人間さ。でなけりゃ、偏見に溺れてしまわなくちゃならない。でなけりゃ、偉大な人間なんてひとりも存在できないはずだ。人はよく「義務だ、良心だ」と言う。ぼくは義務にも良心にも反対しないさ。しかし問題は、それをどう理解するかだ。」

同上 p.140

 片方の将校(さっき話を聞いていた方)は、たしかに老婆は生きるに値しないが、それが自然というものじゃないかという。つまり、世の中にそういう不正があるのは当然だ、ということだろう。それに対して演説をぶったほうは、その「自然(状態)」をより正しくすることが必要だという。偉大な人間とは、社会を〈改良〉する人間のことではないか……そう主張しているように聞こえる。

 さらに続きを見てみよう。

 「じゃ、聞こう。きみは自分で婆さんを殺すのか、殺さないのか?」
 「もちろん、殺すもんか! ぼくは正義のために言ったんで……ぼくがどうのという問題じゃない……」
 「しかし、ぼくに言わせりゃ、きみ自身がやるんでなければ、正義もへちまもないと思うな? もう一勝負行こうや!」

 この二人の会話はここで終わっている。もちろん、こんな議論はとくに目新しいものではない。しかし、なぜこのタイミングでラスコーリニコフはこれを聞いたのか? 彼は運命に絡めとられていく。

 議論の内容に戻ると、じゃあ有害な人間である老婆を殺すのが正義なら君自身がやるのか? と片方が問うている。これはまったく重要な指摘だ。それが正義なら、やればいいじゃないか……。

 こう言われれば、この将校のように「いや、それはできない」と答えるのが普通だろう。なぜか? もちろん、殺人の罪で刑務所に入ったり死刑になるのはごめんだ、ということはあるだろう。では一切罪に問われないとしたら? 

 それでもやはり殺人をとどまる人が大多数だろう。たとえその人を殺すことで多く人が救われるとしてもだ。なぜか。倫理に反しているから、そういうしかないだろう。その倫理の内容はなんだろうか? 
「人を殺してはいけない」

 しかしこの倫理は絶対のものではない。戦場では敵を殺すのは当たり前だ。そこでは人を殺すことは禁じられているどころか推奨されている。死刑だってそうだ。「正義」とされる人殺しは現実に存在する。これが難しいところだと思う。

 いま虐殺を指揮しているネタニヤフを殺して停戦をもたらすことは悪なのか? 彼が殺されたとして、おそらく多くの人はそのことを歓迎するだろう。なぜなら彼自身が殺害をしまっくているからだ。

 じゃあ老婆はどうか? 老婆はもちろん人殺しなどはいないが、無駄に大量のお金をもち、それを自分の死後のために(!)使おうとしている。それは客観的に(つまり「社会」の側から)見れば明らかに意味のない行為であり、それによって間接的に助かるはずの生命を殺している。

 とはいえ、ここの推論は慎重にいかなくてはいけない。なぜなら、これは現代の社会にもバッチリ当てはまることであり、場合によっては誰かを間接的な人殺しと認定しかねない論だからだ。

 しかし実際、われわれは間接的に人殺し、あるいはそこまでいかなくても搾取と加害を不断に行っているのではないか? シーインで服を買うということはなにを意味するのか?


 議論にすればありきたりだが、このシーンには大きな問題が含まれているように思う。そしてこの問題は老婆殺害、ラスコーリニコフの論文、そして改悛へとこの小説を貫いた問題意識といえるだろう。

 さて、ラスコーリニコフはこの偶然の会話にショックを受け、帰宅する。次はそこからみていこう。

この記事が参加している募集

読書感想文

お金について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?