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なんのために絵を描くか(12月28日)

今年に入ってから本格的に絵を描き始めた。絵を描くと「趣味でしょ」と思われがちだが、どうも自分の中の位置付けとして「趣味」というのはしっくりこない節がある。かと言って「将来仕事にしたいの」とか「プロを目指したいの」とか聞かれた時に「はい、そうです」なんてせいぜい週1回か2回しか描いてないのに、烏滸がましくてとても言えたもんじゃない。

今はたまたま近所で見つけた絵画教室に通っている。一番最初「どんな絵が描きたいですか」と質問された時に僕は「デッサンからやってみたい」と言った。デッサンが全ての絵の基本になっていると聞いたからだ。デッサンが絵の基本になっているとは言え、別にそれを必ずしもやる必要はない。先生は「ここは絵画教室なんだから自分が描きたいことをするのが1番だ」とも言っていた。みんなお金を払って来ているし、それはそうだ。実際周りを見渡しても、みんな絵の具を使って思い思いの絵を描いている。鉛筆1本でデッサンする人なんか美大の予備校じゃあるまいしいるわけない。

デッサンはいわば絵を描くための練習。したがって世の中的にあまり作品とは言わない。絵を描いていることを人に話すと「どんな絵を描いてるの」とか「絵見せてよ」となる。でもやっているのはデッサンなのでいつもそこで気が引けてしまう。美大出身の友達や知り合いにデッサンの話をすると「そんなことしなくても、すぐ絵の具使えばいいのに」と言われたり、そもそも絵を描くということに対して「これだけデジタルが進んでいるのに今から絵?」みたいなことも言われる。自分で決めたはずなのにその一つ一つの意見に妙に納得させられる。でも今はデッサンしている時間を心から楽しめている。かといって僕にも将来的に油絵をやってみたいとか色を使ってこういう表現をしたいという気持ちは確かにある。

ここまでのことを踏まえて、いつもひょんな一言で、自分が何がしたくて絵を描いていて、どこに向かって描いているのかを見失ってしまう。本能的なものが先に来てしまっていて、うまく人も自分も納得させれるだけの言語化ができない。焦る。その焦りは筆に出る。その度に僕の言動を察したのか先生が「ゆっくりやって行きましょう」と声をかけてくれる。その声がいつも僕の傾きかけた体を正面に戻してくれる。でもそういう鋭い意見をくれる友達の存在はとてもありがたくて、その問いかけに必死で考えることで少しずつ自分というものが確立されていく感覚がある。

話は戻るが趣味として絵を描くことに自分が納得していたら、僕は今デッサンにこんなに執着せずに絵の具で好きに描いているはず。そうじゃないということは、自分なりの表現を追求したいということなんだと思う。ますます僕は僕自身のことが分からない。人生が収束するどころか広がっていくばかりである。統一感はまるでない。周りで自分の揺るがぬ強みを見つけて突き詰めている人が眩しく映る。

ただでさえその習得まで時間がかかる絵画や美術の世界。どこまで続くかは分からないが、生き急ぐことなく40歳をひとつの目安に10年以上かけるくらいの気持ちでじっくり進めていきたい。


《記念すべき初作品》りんご、2B鉛筆、製作時間3時間

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