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『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』インフォデミックには理性で対処

過去の障害者「いじめ」問題によって、小山田圭吾さんが東京オリンピック・パラリンピックの楽曲担当から外れることになった事件は、未だに生々しく記憶の棘として自分の心に突き刺さっています。

今となっては沈静化しましたが、問題が勃発したときは蜂の巣を突いたような大騒動になりました。

「イジメ、それも障害者にイジメをおこなっていた人物に東京オリンピック・パラリンピックの楽曲を担当さえることは何事だ!?」
……といった意見が主流でした。

一方で、「ロッキング・オン・ジャパン」はじめ各誌の記事の不正確さも指摘されましたが、真相は藪の中ながらも、結局は極めてクロに近いグレーという世評になったと思います。

しかし年月が経ちました。
ようやく冷静な議論ができるタイミングが到来したかもしれません。

『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』は、誤情報が感染症のように広まるインフォデミックを考察した本です。

著者は、批評家の片岡大右さん。
専門は社会思想史・フランス文学とのことで、いわゆる「音楽村」の住人ではありません。小山田圭吾さんに忖度し肩入れする必要はなさそうです。

冷静な筆致で事件のファクトを積み重ねていきます。

「ロッキング・オン・ジャパン」と「クイック・ジャパン」でのインタビュー記事について。
前者は編集の「意図」に添って、露悪的な小山田さんの姿が作られていきます。
後者は編集の「企画」によって、否応なしに「いじめ」文脈の中に組み込まれていきます。「いじめ紀行」というセンセーショナルな企画は、それだけでも求心力がありました。

しかし著者が精緻に当時の記事を読み解いていくと、「いじめ」というよりも、子供の「悪ふざけ」の側面が強かったことがわかります。

少なくとも巷間言われるような「障害者に、ウンコ食わせてバックドロップ。自慰も強要した」のは、小山田さん本人ではなく、別のいじめっ子でした。

小山田さんは傍観者に過ぎません。
もちろん傍観者の責任というのもあるのでしょうけど、どこまで問われるべきなのでしょうか。

著者は語ります。

加害責任の所在と程度を曖昧化し、出来事にほとんどあるはまったく関わっていなかった人びとの責任を不当にまたは過度に問うことになりかねないという問題がある。

一概に、傍観者でも責任がある。あるいはないということではないと思います。

「いじめ」という言葉は、非常にストレスが掛かります。
僕も脊髄反射的に、拒否反応の感情が湧き上がります。

「イジメ、ダメ、ゼッタイ」は絶対です。
異論はありません。

けれども、「いじめ」という事象は複雑です。
更に報道もセンセーショナルな方向に行きがちです。

かつて福岡で、「史上最悪の殺人教師」と呼ばれた教師がいました。

・家庭訪問の際、児童の曽祖父がアメリカ人であることを聞いた教諭が、児童の「血が穢れている」などの人種差別発言を行った。
・翌日以降、児童らが帰り支度をしている際、教諭は児童に対し、教諭が10数える間に帰りの準備をするように命令。できないと「ミッキーマウス(両耳を掴んで持ち上げる)」「ピノキオ(鼻をつまんで振り回す)」などの「刑」の中から児童に選ばせ、実行するという体罰を行うなどした。これにより、児童は耳を切るなどの怪我をした。
・さらに教諭は児童に対して「お前は生きとる価値がなかけん、死ね」などと発言。

福岡市「教師によるいじめ」事件

当時、ワイドショーや週刊誌でさかんに報道されました。

最終的に、いじめを受けた児童側が裁判を起こします。
当然でしょう、ここまでヒドい教師は聞いたこともありませんし。

しかし裁判では、児童側の主張はほぼ認められませんでした。
教師の懲戒処分も、すべて取り消されることにもなりました。

「教師によるいじめ」は真実性がなかったからです。

「いじめ」という言葉には、無条件に人の感情を扇動する力があります。多少の事実の齟齬は関係ない。とくかくいじめは100%悪なので、糾弾すべし……という感情に一気に持っていかれそうになります。

ただ、そこで一旦踏み止まるのが、理性だと思います。

世の中は単純ではありません。

小山田圭吾さんの件は、「オリンピック」という党派性も絡んだムーブメントの影響もありました。

しかし世の中は、党派性のように単純化できるものでもないのです。
問題に対し愚鈍であると思われても、理性でもって対応していくしかありません。

インフォデミックには理性を。これに尽きるかと。

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