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カフェオレ日和。

久々の投稿。

36度だかの猛暑が続くかと思えば(40度を超えた地域もあるようだ)、突然の雷雨。ちなみに今日の気温は16度。

先日、冗談抜きで倒れそうになった。
フランスの一般家庭には冷房設備がなく、むろん我が家も例外ではない。
というとびっくりされるのだが、夏といえど概ね気温は25度から30度くらいだし、からっとした天気なので、普段は冷房がなくても耐えられる暑さである。重苦しく肌にまとわりつくような日本の夏でさえ元気に過ごしてきた私である。体力には自信があった。

フランスの夏よ、なめんなよ、日本人を。
こちとらあの地獄を経験してるんだよ。(謎)
冷房なんてなくても生きていけるっつーの。

自分の体力を過信していたのだろう、言われるがままにほいほいと映像翻訳の仕事を引き受けてしまい、結局明け方の5時までかかってしまった。
そして別件で絶え間なく送られてくるメールやら、レッスンの準備やらで、
休みたくても休めない状況に自分を追い込んでしまった。
夜の間はいいのだが、日中は逃げ場がない。
ブラインドを下ろしても容赦なく室内に侵入してくる太陽光と熱風にさらされていると、頭はいよいよオーバーヒートしてくる。
ついにダウンして仕事を休まざるを得ない状態になってしまった。

ああ、情けない。なんでこんなに体力がなくなってしまったのだろう。
日本にいた頃は、こんなことはなかったのに。

そこまで考えて、ふと気がついた。
そうだ、よく考えたら日本にはクーラーというものがあるではないか。
どんな猛暑の最中でも、ひとたびカフェに飛び込めば冷房天国である。
その、200円ほどで買える、ちいさな清涼な空間で作業をするのが好きだった。
アイスコーヒー片手にフランス語の勉強や手帳の整理などをしていると、頭がクリアになってくる。さあ、また頑張るかと、また次の仕事に向かう。
今にして思えば、それは「きもちいい」という体の軸に立ち返らせてくれる、贅沢な時間だった。

以前、お世話になっていた整体師の方に、こう言われたことがある。
「何をするのであれ、躰が気持ちいいと感じる方向に動かないと、それは嘘なんですよ」と。

心で感じることは躰に現れる。
嫌なことをずっと我慢していると腰が捻れてくると教えて下さったのも、その整体師さんだった。
躰はシンプルだ。
「もっと頑張れるはず」とか「他の人は私よりも仕事をしているのに」とか
思ってみても、自分の躰にとって辛ければ、それは「苦痛」の記憶として細胞に刻み込まれる。
あるいはどんなにナマケモノだと罵られても、まだ少し肌寒い朝の冷気の中で布団にくるまって漫画を読む時、私の躰は確実に満足しているのである。

日本にいたころの私には、しかし、物事を選ぶときに「気持ちいい(「楽しい」とか「快」と言い換えてもいいだろう)」と感じるかどうかを指針に行動するなんていう発想そのものがなかった。
私にできたことといえば、やらなければいけない1000のリストを作成し、そのうちの一つでも達成できなければ、やっぱり私はダメな人間なのだと、うじうじと自分を責めることくらいなものだった。
今にしてみればなんと非生産的なやり方だろう。

「楽をしている」はすなわち「怠けている」=「罪悪」で、
「快を選ぶ」のは脳のネジがぶっ飛んだ人間の成れの果ての選択だと思っていた。
苦しめば苦しむほど、善人に近づけるのだと。
イカれた宗教家の唱える根拠のないマゾヒズムのようである。

今、私はまだまだ「洗脳」されている状態なのかもしれない。
「努力教」
「有意義教」
は、空白の時間を嫌う。
今ある時間を無為に過ごすとは何たることか、
自己をもっと高める努力をするのだ、
スキルを磨け、外見を整えろ、知識を詰め込め、
この瞬間を少しでも多くの「イイね!」と収益化に向けるのだ、など等。

このような、なんだかよくわからない頭の中の洪水のような声が
聞こえてきたら、使える呪文がある。
"Rien à foutre , je fais ce que je veux !" 
(どうでもいいよ、私は自分の好きにする!)
この呪文は今のところ、まだ私の魂の奥深くにまで浸透してはいないようで
思い出すまでに時間がかかる。

さあ、今日のノルマは終わった。
灰色の空の下では冷たい雨が降っている。
カフェオレでも飲んで休憩しよう。


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