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湿っぽくない最後は最高だろ〜103歳の祖母が亡くなった話|ココカリ心理学コラム

2021年12月に祖母が103歳で永眠し喪中となりました。新年の挨拶でおめでとうを言わないのはそのせいだと思ってください。

仕事の関係で葬儀には参加できず、前日の納棺に立ち会いました。最後は点滴を刺せないほど血管も老化しきっていたようですが、皺々の肌には艶があり、死化粧を施してあの世へ向かう姿は凛として神々しかったです。

大病を患うことなく衰弱死という形でこの世を去りました。大往生です。もちろん哀しかったけど、同時に不思議と誇らしく嬉しい希望のような感情もありました。悲嘆や涙で送り出すだけが餞ではないことを知りました。こういう最後はある種理想的だなと感じました。

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私は病院臨床でご高齢の方の認知機能検査やカウンセリングを受け持っています。身体疾患や脳機能に伴う効力感の喪失、伴侶や同世代が亡くなっていく寂しさ、そう遠くない先に訪れる自身の死、こうした状況変化や沸き起こる感情をどう自分の中に収めていくのか、レジリエンスが問われます。ある方は、安楽死について話をされました。人生の幕引きを自分で決めてもいいのではないか、と。

安楽死の是非は死生観に委ねられると考えます。どう生きてどう死を解釈するかという問題です。このとき、死だけではなく、生も一緒に考えることがポイントだと思います。私は死生観の話になると決まって「完全自殺マニュアル」と「夜と霧(ヴィクトール・E・フランクル)」が頭の中に登場してきます。

高校生の時に購入した「完全自殺マニュアル」は今でも私の本棚に鎮座しています。簡単に人は死ねることが解ったらこころが軽くなりました。「夜と霧」では、アウシュヴィッツ収容所という絶望的な状況でも、希望を失わず今を生きれば生き抜けることを教えられました。死ぬのは簡単で必ずいつかは死ぬわけだし、それならもう少しやってみるか、そういうことなのかなと私は思っています。

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今この瞬間に照準をあわせて今を精一杯に生きること。これが一番大切なのでしょう。仮に今なにかあって命を落とすことになっても、大往生だったと言えるような生き方をしたいと願うのです。

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死生観や安楽死について、ご興味ある方はこちらの過去ログもどうぞ。