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紙一重

芸術や芸能の世界では、本当に表現したいものと評価されるためのものとの狭間に苦悩するということをよく耳にする。

それを聞いてふと思うことは、誰からも相手にされず、評価もないようなものに本当の価値があるかもしれない。と。

そういうものは、誰もその価値を見出すことが出来ないという点で、非凡なのではないだろうか。もちろん、誰も評価出来ないわけだから真価は分からない。

天才だと言われる人がいたとして、それは果たして本当に天才なのだろうか。言った人は非凡な者なのか。もしも非凡でない者に見抜けたというなら、本当に非凡だと言えるのだろうか。

それとどの程度に対して非凡と言うだろうか。それも本当には、線引き出来ない。結局、評価を得た人が脈々と争いと引き継ぎによって踏襲しているような側面がある。ようはパトロンによるということだ。

その点、腕力が非凡かどうかは対戦などの勝負で判断出来るだけ分かりやすい。また学問で言えば、難解な事柄を解明したかどうかで多少の判断は出来るが、その環境があったことが要因でもあるので一概とは言えない気がしている。

それ以外の事柄に関しては、正直言って吟味に吟味を重ねても中々判断出来るものではないと思っている。

堂々巡りなそんな考えを持っているせいで、世界中のあらゆる物事に関して簡単に流される割には、信用していなかったりする。どっちの感情も同時に持っていたりする。

自分の中でガイドラインを少しずつ創って、少しずつ更新していくという地道な作業が人生なのかなと思っている。

全ては、紙一重であるから、何かに怒るということが中々出来なくなってしまった。視野が狭く、決めつけの激しかった年齢の頃は、自信満々に即決で振り分けしていたが、だいぶ年数が経った後で考えると沢山の間違いがあったことに気付くものだ。

そうこうしている内に、感情が出なくなってきて、どのような情報や状況や変化にもある意味で鈍感なようになる。良く言えば、冷静で客観的なのだろうけれど、第一線を走るには、頼りないと誤解されることもあるだろう。

きっと、いろいろな体験が増えれば増えるほど、全てが紙一重になっていくのだろう。

真の天才を見破ることは出来ないことのように。