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『俺』と書くわけ

特に言うべきことでもないけれど、俺という言い方は、決めたからしている。
見知らぬ第三者に正しい言い方は出来る。

しかし、そうすると途端に偽りのようになってゆく。
自分の言葉で書くのならば、旧来の友人・知人に話すようにしたほうが良いと思っている。全てにそうするわけではないことを捕捉しておきます。

思考は、言葉の使い方で変わる。
ここに書くのは、小説ではないから、『俺』で良いという判断だ。

X(旧Twitter)も同じだ。

それを失礼だという見方も当然にある。
しかし、基本的に双方向というよりも一方的という色合いが強いと考えている。
だから、演じるように書きたくはないと思ったのだ。

感情も書くし、時事の感想も書く。これまでの経験を書くことも多い。
それなのに、四角四面に書くのは非常に内面が伝わり難いと俺は思うのだ。

特にSNSでは、嫌なら見なければ良い。
それなのに、わざわざ批判してくるアカウントは、意図があって絡んでくる。
つまり、顔も知らないネットの向こう側のアカウントの意思であり、自分には全く関係がない。

だけら、ブロックすることにも抵抗はない。
ブロックを悪と思っている人も多いが、俺はそうは思わない。
むしろ、ブロックしないのは人生の時間が限定であることを知ってか知らずか消費することを受け入れていて、そうすることを望んでいるのではないだろうか。

数十年という単位で物事を考えた時、長いように感じるかもしれない。
しかし、この1秒1秒が人生であり、確実に死へ向かっていると自覚しているならば、それほど長い時間ではない。それに突発的な終焉を迎える可能性だって十分にある。次の瞬間には、人生が終わる可能性は当然のようにあるということだ。

だから、俺は『俺』で良いと思っている。
分からないことだらけが長かった。いろんなことに流されてきた。
これまで、どれだけの人生が無駄で、どれだけの人生が有意義だったかは分からない。

だけど、経験や本などの過去に学んだことは活かして過ごしたい。

『俺』を使うのは、そういう意味だ。