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あなたの声が聴こえる


先日、根深い観念をまたひとつ手放しました。


小学校に入学してまもなく、校門に一人、不安気に佇んでいた娘を、同じ保育園だったお友だちの保護者さんが見つけてくれて、家近くまで送ってくれたのですが、気付いてくださったことへの感謝と、ホッとした気持ちはあったものの、なぜか胸の奥がザワザワしていました。

そのあと、ちょうど同じタイミングで帰ってきた夫に、一部始終を説明するとき、娘がポツンと取り残されたように校門に立っている姿を想像した瞬間、胸にズドーンと重たい岩が落とされたような衝撃が走りました。

その時、とうとう来てしまった、という感覚と、その幻想にじわじわ巻き込まれ始める感覚があって、これまでの生きづらさは、この感覚から逃げつづけたことの積み重ねのような気がして、もうこれを今ここでちゃんと観るしかない、と覚悟を決めました。

波があり、発作のように襲ってくる恐怖。

それでもなんとかこらえて、逃げずにその脳裏に映されるものを観続けました。


暗くて不穏な空気が漂う、瓦礫がたくさんあるような廃れきった感じの場所で、ポツンとひとり取り残されているわたしは、抱えきれないほどの絶望感を全身に受けて、その瞳は恐怖で我を失っているように見えました。

そしてそれが、この映像にそっくりなのです。
本当によく出来た歌だと思います。



なんで?なんで?と湧いてくる絶望と引き剥がされるような痛み、涙。苦しくて悲しくて、身動きが取れないほどの孤独感。

とにかく脳裏に浮かぶ映像を観ては、いっぱい泣きました。

そして、これは、今世の記憶じゃないなって、なんとなくそう感じ始めました。  

ちょうど1年前にも、のたうちまわるような苦しさで“わたしは愛されない”と言う囚われを手放したのだけど、今回は、強烈な置いていかれる、取り残される感覚でした。

そこまで気付けると、今世での幼き日からの寂しさや苦しみは、この記憶に紐付けられているという気がして、今回さらにコアなものが出てきたように感じています。

とりあえず身体の奥から湧いてくる振動に身を任せて泣く、でも頭では考えない。わたしがしたのはそれだけですが、最中は、言わずもがな、すごく苦しかったです。だけど、ひとつ前の記事にもあるように、翌日の昼には、楽しく公園で遊んでいました。

観て、感じて、その当時の感情を出してしまえば、いつのまにか、す〜っと消えてしまっていたのです。

それこそ、もうそれ以上は浸らなくていいような、何かに集中する流れみたいなものまで、自然と起こってきて。

今では、ケロっとして、何が怖かったのか思い出せないくらいです。なんだかひとまわり逞しくなったような気さえします。


そもそも冷静に考えれば、娘が校門にひとり不安気に立っているくらいで、あそこまで恐怖を感じる必要はないし、入学したてのこの時期にはよくあること。

なのに、本当に見事なまでにぴったり、我が娘の状況に、内側の恐怖を投影してしまっているのです。
とにかく隙のない臨場感を持って湧き上がってくるため、なかなか冷静にもなれず。

でも、だからこそ、徹底的に観ることで、1ミリも疑う余地のない“大丈夫”を、身を持って感じる必要が、わたしにはありました。

そうして、果てしなく永い間、無意識から浮上する機会をひたすら待ち続け、ようやく出てきてくれた、大切なかつての感情のひとつと向き合い、大丈夫を確信した瞬間、この世界のシステムの完璧さに唸りました。


これが愛だ、と。


長い間、いわゆるネガティブと呼ばれるいくつかの感情と向き合う勇気がなく、抑えつけ、観て見ぬふりをし、嗅覚の刺激にさえ耐えられず、鼻で息をすることもやめて、いつも誰かのせいにして、臭いものには蓋をしてきました。


だけど、世の中のすべては面白いほどにパラドックスでできていて、目を逸らし、逃げれば逃げるほど、目の前に現れるようになっており、見つめればば消えてしまうことを体験しました。

だから、辛さには救いしかない、というのが、受け入れ→手放すことを繰り返してきて得た感覚です。

本来、感情は分けることができず、いろんなものが混ざり合いながら、行ったり来たり。寄せては返す波のように、同じところに留まり続けることができません。

腹痛や陣痛の波にもよく似ています。

これまでさんざんそんなことを繰り返してきて、だんだん行ったり来たりするその落差に疲れ。

二極の世界の魅力には、いろんな意味でゾクゾク楽しませてもらったけれど、そろそろお腹いっぱい。

とは言え、喉元過ぎて熱さを忘れることだってきっとある。だけど、魂の理解は、ゆっくりじわじわ螺旋状に進み、丁寧に書き換えられてゆくものだから、今更、焦ったり急いだりしなくてもいい。それくらい、永い永い旅をしてきて、やっとここまで辿り着いたんだから。


どっちみち、肉体が死を迎えるまでは、何かしら出てきます。

それさえわかっていれば、あとは逐一出てくる不安や恐れを光の子どものように扱って包み込み(受容)、解き放ってあげるだけ。

これが自分を大切にすること、丁寧に扱ってあげることだと感じています。


もっと簡潔に言えば、表現としてはそっけないかもしれませんが、人間の身体に備わった排泄機能みたいなものなんじゃないかなって思います。


そういえば、わたしの好きな藤井風と森山直太朗の楽曲の中には、それぞれ【damn】(クソ)と【うんこ】という歌があります。

決してふざけて笑かしているのではなく、それほどにまで“出す”とは、その真髄は、創造性に溢れた行為なのだと思います。



冗談じゃなく、この歌のように、すすすすっきり!したら、気分爽快!いつからでも素敵な今日の始まり!です。空も飛べそう、何でもできそう、軽いって快適なんです。


あ、でも、出てくる前の途中の腸はグネグネしてるから、人生も、グネグネ曲がり道があったからこそ、愛おしさやありがたさ、温もりや癒しに気付けるのかもしれませんね。


そんな素晴らしいシステムが搭載されたこの身体。本当は、その機能をもっともっと奥深くまで、活用されたがっているような気がしてなりません。

スピリチュアルな悟りや目覚めと呼ばれるものは、本来、37兆個の細胞を調和させ、生き生きと命そのものを輝かせていることなんじゃないかなって思います。


手指の関節が痛みで動かせず、真ん中を意識して、末端までエネルギーが流れるのを感じながら、ゆっくりと動かすことをやってみたとき、これまで感じたことのない充実感で満たされ、そんなことを思いました。


いろんな観方、感じ方があるから、心が楽になる視点は人それぞれです。


わたしは“このままではいけない”と言うプレッシャーが、自身を最も消耗させ、分離させ、葛藤させ続けてきたように思います。


そこで選んだのが、そのままでよい。


絵を描こうとするな、溢れるものを捉えよ。

(自分の内側と繋がる)


不満な現状を変えようとするな、命(細胞)の息づかい、その変化変容を見守れ。

(細胞は常に最先端の動きをしていると言う信頼)


動こうとするな、動かされよ。

(思考を休め、身体(細胞)に任せる)


何かをしようとするな、真ん中と共にあれ。

(そのままでよい)


それが中真感覚、ゼロに在ることなのかなと理解しています。




そこからは、波紋のように、自然と広がってゆくエネルギーがあるから、勝手に目の前の世界が変わっていくのを感じられるようになっていくのだと思います。



余談ですが、わたしは一年前まで、ゾンビのように、顔から足先まで、皮膚がずるむけになり、浸出液が出るほど爛れて、お風呂にも入れない、眠れない寝たきりの生活をしていました。

死んだ方がマシと思えるほど、心身ともに苦しい日々でした。でも薬は使わず、ひたすら寝て、起きれる時はただ好きなことをして過ごしました。

たくさんのエネルギーに支えられながら、しばらくの間、出たり引いたりを繰り返し、今、皮膚の爛れは右手の薬指だけになりました。

目の周りの違和感は残っていますが、20歳くらい老けてお岩さんのような顔になってしまってから、二年経って、今は8割くらい、目が開くようになりました。


細胞は間違えません。


遅くも早くもない、ぴったりのテンポとリズムで動いてくれています。


痛みも痒みも爛れも怠さも違和感も何もかも、必要だから起こっている。出されている。細胞による修復作業が始まっている証です。


そんな今ここで起こる、数々の内なる振動に耳を澄ませ、寄り添ってあげられたなら、閉じ込められたいつかの心の叫びが、あるときふいに聴こえてきて、言葉にならない何かが込み上げてくるかもしれません。





さて、新一年生の娘を、一昨日も校門まで迎えに行きました。

授業が終わり、勢いよくお友だちと走ってきたと思ったら、大きな声で “なんでむかえにきたのー!おかあさんはさきかえって‼️”と言われました。

えぇ〜なにそれ〜(笑)

そんなやりとりを、周りの保護者に笑われながら、あらゆるよろこびを真ん中におさめつつ、しみじみと感謝を浮かべ、淡々とした心持ちで、先に帰らせてもらいました。

あの日、校門に一人佇んでいた娘は、やっぱり幻だったのでしょうか。

何はともあれ、子どもたちが元気でいてくれるなら、それがなによりです。




今アツイキセキが この胸に吹いたら
時の流れも 水の流れも 止まるから
愛しい人 震える想いを のせて
いつまでも 夢の中にいて

クラシック




変わってゆく私も 変わってく景色も
イタズラに時をすべって
もし生まれ変わって違う私でも
永遠に 銀河の風に吹かれて

風に吹かれて




声は電波にノッテ あなたの街に
あたしの想いを届けに 旅にでる
恋は電波にノッテ 遠くの街に
あたしの想いを届けに 旅をする
聴こえる 

 RADIO




さよならは言わないでね
願いはひとつだけ
夏を待ってる

空には今でも ひとつだけ
いつでも全ては やさしくて
今でも見えるよ ひとつだけ
ゆれるわ ゆれるわ ゆれるわ

ひとつだけ   



YUKIの言葉(歌)から漂う意識の深遠さに、震えます。




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