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「ADHDは片付けができない」はほんとうか?

最近、いろいろな紆余曲折の末、自分は「ADHDがメインの発達障害」という診断になった。いまさら発達障害の種類が何かについては、何も興味がない。ただ、一つ試したいことがあった。

「ADHD」というと、「片付けができない」とか「部屋が散らかる」とか。

いろいろそういうイメージを持っている人が多いので、きちんと自分自身で検証してみなければならないと思う。

「片付けできない人」の末路は僕自身体験していた。

何年か前、区の福祉担当の人が様子を見にきたとき、ゴミなのか本なのかわからないぼくの部屋は異臭を発し、カギも壊れていたので、野良猫が自由に出入りできる状況になっていた。40センチほどコーラの空きボトルが堆積し、本だかなんだかわからないものと一緒くたになって畳は見えない。

ぼくは野良猫を追い払う気力もなく、ぼくが捨てた弁当のがらを猫が食べるのを見つめていただけ。

福祉の人は状況をみて即座に、「うん、これはゴミ屋敷」

ということになり、即座にヘルパーさんを手配してくれたのだけど、生活は全くできていなかったから、そのときから「やっぱり片付けできない」と思い込んでいた。

でも、「ほんとうにできない」のか

そう思ってちょっと検証してみることにした。

             ※

実際、最近元気になって、「銭湯へいく」のが日課みたいになったのだけど、準備にものすごく時間がかかってしまうことが多かった。銭湯へ行く日は銭湯だけではなく、病院の治療のなどの用事のあとに立ち寄る感じなので、1時間遅刻してしまうと他の用事にも影響がでる。

「え、あれ、タオルどこにあったかな」
「シャンプーどこだっけ」
「どの袋にいれていこう?」

人間の命には限りがある。

そこで、「銭湯に何を持っていくか」で1時間も無駄にしている暇はない。「片付け」をなんとかしなければ、と思ったのである。

実は「ふつうに片付けしろといわれてできるか」といわれても、多分ぼくはできないとおもう。ADHD患者だからかどうかはわからないけど、とても大変なことになってしまう。

よく、「努力しろ」と言われるけど、努力してもどうにもならないことがあある。「本の整理」ひとつにしたって、そもそもしまった位置を忘れるくらいだから、延々と書類の整理を9時間やって、結局投げ出す、という事態になることが多い。

「ふつうの人の片付け方」をそのまま実行して沼にはまって詰んだ、体験がありすぎる。

                ※

よく「片づけ」ができないと言われるけど、

ぼく流にいうと、「片付け」と一口に言っても、いろいろな作業を大雑把にまとめて、「片付け」と称しているだけで、「片付け」のなかにも「できる作業とできない作業がある」というのを多くの人が見逃していると思う。

診断ではっきりしたのは、ぼくは言語性IQが高く、

「言葉でものをまとめる」のは得意だけど、

動作性IQが非常に低く「ものの位置、形、そういうのの把握が苦手」という結果だった。

たとえば、「リモコンを入れたいな」、と思って「リモコンラック」を「Amazonで探す」とする。

しかし、形状を見ても自分の部屋にどのようにフィットするかがまったくイメージがつかない。

なんとなく「縦置き式のもの」というイメージで、「便利です」っていうコメントをもとに買うんだけど、結果、まったく活用できないという経験もした。

わが家のリモコンラック(そもそもリモコンが入ってない)


極端な話、形から用途を推察できないので、100均とかで整理収納グッズをみても、どうつかえばわからない。100均で陳列されているものを見て、そこにこまごまとしたものが入っている姿が想像できないし、そのままパニクるという経験もした。

そう。「片付けができない」のではなく、「ものを自分の部屋に頭の中で置いてみる作業」ができないだけなのだ。

そして私ははっときらめく。

「どういうふうに使っているかを見てから収納するグッズを選べばいいんじゃない?」 

            ※

この発見が、画期的なものだった。

100均にいきなり行って「これこんなふうに使えるかも」という「発見」が得意な人って絶対いると思うけど、ぼくはそれができない。その人たちが「こう使ってますよ」という使用例を見るしかない。

そこで、まずレタスクラブのウェブ版をひらいたり、「収納 アイデア」みたいなワードで検索をしたりして、「他の人がどういうふうにどの商品を活用しているのか」

ということを調べて理解することから始めた。

この検索する作業はぼくはとても強い。いきなり「使用例」がばーんと表示されるようになるまで、少し工夫して、サイトに巡り合うことができた。

いくつか紹介します。

・roomclip (収納のアイデア集)

・folk-media.com

どういう収納を使うか、という実例をみてから商品を選ぶ。

で、商品を「決め打ち」して出かける。100均はどこに「もの」が置いてあるかがわからないので、「これほしいな」と思ったら、商品名とJANコードを検索してメモして出かければいい。

お店の人はタッチパッドでJANコードを検索して、「あ、これならここにありますよ」

と紹介してくれる。

「うちこういうふうにしたいんですけどね」

というと、100均の店員さんはみな親切で、形状から用途を理解するのが得意だ。

「Amazon Fire Stick の収納はこうしたほうがいい」

とかアドバイスをくれる。

で、私は「片付け」というより、収納グッズ探しにはまってしまって、とうとう100均に通いつめて「理想の収納グッズ」を集めてしまった。

まだ完成には程遠いけど、

たとえばこれ

エアコンのリモコン


amazon のリモコンはパソコンデスクの隣にセット
テレビリモコンはあまり使わないけど、後ろにテープを張ってフックで引っ掛ける

これだと、いちいちリモコンをおきにラックを探す必要がない。
ぽっと気になった時、リモコンをPCから取り出して、Amazonを見れる。

同じようにいろいろ「苦手そうなことは動線を考えて「いる・いらない」を決める」をやった。

色々工夫して銭湯グッズもつくってしまう。

セリアで売ってるスパバッグ

銭湯はシャンプーやリンスが置いていないのがデフォルトなので、シャンプー・リンスそしてひげそりをこのバッグにいれる。

実はこのバッグ、下がメッシュになっているので、立てかけておけば乾く。
非常に使い勝手がいい。

これは浴室に持っていくもの。

あとこういうパターンもある。

歯磨きトレーと歯磨きセット


私は歯磨きを手でやると血が出るまでやってしまうため、(かなりの大量出血!)

銭湯にいる他の方がびっくりするかもしれないと思って、電動に変えた。

電動歯ブラシは浴室にもっていけないくらいの防水能力なので、基本的に防水仕様でないランドリーポーチに入れて、持ち歩く。銭湯の洗面台で磨くのだ。

銭湯にいかないときも、電動歯ブラシは使うので、いつでも寝室でも磨けるようにトレーと、珪藻土の歯磨きスタンドさらに家用のコースターをセリアで買って置いておく。

銭湯にいくとき、この2つをセットして持っていけばいい。

本どうするの?


わが家といえば「本」である。

実は最近まで本を整理していた。いままで単純に、「おけばいい」という感じでいたんだけど、元の位置に戻せない。だいたい雑にしまったものってしまった場所をわすれるので、そもそもすべての本を取り出して、「うちにこんな本あったんだ」と気づきながら、片付けをしてみた。

どの人の本がどの人の隣りにあるべきかをこだわっておいてみる。僕の場合、「著者に関連のある順」でまとめると、片付けしやすく覚えやすい。

普通、本を整理するときは中身を読まない人が多いけど、私はむしろ中身でしか本を覚えていないので、贅沢に「読みながらやる」ことにした。

おかげですべての本が本棚に収まり、しかも関係のない本は断捨離して、最後に哲学文学史学短歌の本をすべて残した。

一例はこちら。コンセプトは「すべての著者が見ても、失礼のない本棚」である。わたしが突然死したあと、知り合いが来るかもしれない。そこで、「自分の本が床においてあった」様子を目撃したらその人は悲しむと思って、関連のある順にあえて並べ直した。

例1:りとむの仲間たち(松川先生は隣の棚)


例2:やっぱり黒瀬さんの隣はこういう並びになるよな、とか思いながら。

紙類へ


今、最後の難関である「紙類」にとりかかっている。
「紙類」と言っても、捨てるもの捨てられないもの、捨てていいか判断がつかないものとあって、その判断がむずかしい。

一番むずかしいのは「役所のもの」である。いつどこでどの課が見せてほしいというかわからないし、それを全部取っておいても、紙だけが貯まる。

そこで「マイナンバーカード」の出番。

わたしは「できる限りのものは電子化したい」

と思っていて、「捨てていいかわからないもの」については、役所関係は全部電子化した。

・「ねんきん定期便」「年金関係」

よく送られてくるけど、これ、保管に困るものの代表例。全部マイナンバーカードの「ねんきんねっと」に接続すると、マイナに勝手に保管してくれるし、情報も電子でダウンロードできる。

・「おくすり手帳や検査結果など、医療情報」

用途別にクリアファイルにわけ、使わないで保管するものについてはカメラでスキャンして可能な限り捨てることにした。おくすり手帳も電子化、マイナ連携。検査結果もアプリに入れている。

通院の予定はメモではなくGOOGLEのカレンダーに入れて前日にアラームが鳴る。

マイナンバーカードに反対していた人は、優しさがないと思う。全部1枚で済むんだったら済ませてもらったほうが、私のような非定型発達者には助かる話。紙がだめな人だっているんだから、テクノロジーで生きやすくなる人のためにどんどん推進してもらいたい。

結論から言うと、ADHDのぼくは「努力しても片付けは出来ない」。

むしろ、「片付けができるような工夫」を自分で考えられれば、「人並み以上に片付けマニアになれる」ということだ。

努力より工夫。

圧倒的にできる部分で、出来ない部分をカバーしながら、そもそも生まれつき、人とは見え方が違うのを、強みにしていくしかない。

そう確信した。

実は、凹凸がある人のなかで、こういうふうに圧倒的にできる部分とできない部分の差がある人というのは、かなり恵まれているほうだということも付記しておく。

ぼくはたまたま「工夫ができるADHDだった」だけで、「ADHDがみんな工夫ができる」わけではない。努力はできない。運がよかっただけである。

他人がいくらやれと言っても、ムリなものはムリだし、叱られても落ち込むだけなので、むしろそっとしておいてほしい。

終わりに


最後に本棚を見つめて、この人の隣は…と探していて、ふと立ち止まって読んでしまった本がある。

仙波龍英さんの本だ。

『仙波龍英歌集』(六花書林)

わたしが未来に入会してはじめて歌人論を書いたのが仙波さんだった。実はふと手にとってみて、その享年に驚き、さらに藤原龍一郎さんの仙波さんの回顧をあらためて読んで、身につまされる思いがしたのだ。

仙波龍英は1952年生まれ。2000年ちょうどに没している。享年が48歳。

仙波さんは類まれなホラーの書き手であった。80年代のホラーは今みたいな「ほんとにこわい」ジャパニーズホラーではなくて、むしろスプラッタみたいな「血ドバー」表現がふつうの時代だ。それがぎりぎり最後の残照を放っていた時代にぼくはレンタルビデオ屋さんでB級映画を借りてみていて、「これってエロ・グロ・ナンセンス」の名残だよな、と思って、仙波さんの短歌表現に親近感を抱いていたのである。

藤原龍一郎さんの回顧が哀しい。

これは晩年、疎遠になった仙波さんを心配した藤原さんが、短歌人の方と一緒に訪問したときの様子である。

(前略)ある日、やはり仙波のことを心配していた「短歌人」の榊原敦子に誘われて、二人で仙波龍英が暮らしている東急大井町線の北千束駅近くの彼の家を訪ねた。鍵がかかっていなかったので、勝手に家に入った。声をかけると洋室から仙波龍英の声が聞こえた。洋室 のドアをあけると、壁の隅のベッドに、ジャージ姿の彼が横たわっていて、そのまわりに異様な光景が広がっていた。床はまったく見えず、おとなの膝の高さくらいまで、地層のように何かが床に堆積していた。それは缶ビールの空き缶だった。どうしたのかと聞くと、外に捨てに行くのが面倒なので、床に放り出すということを続けるうちに、こんなになってしまったのだという。 それにしても、床上四十センチくらいの層ができるまでの量の空き缶とは想像を絶する。とにかく、何とかしなければならない。榊原敦子と私はコンビニでゴミ袋を買ってきて、缶を除去する作業にとりかかった。仙波はベッドに横たわったまま動かない。顔は蒼ざめていて、体力が衰えているのだろう。手伝いたくても起き上がることができないようだ。とはいえ、缶ビールは買いに行っているはずだから、筋道は通らない。しかしそんなことを追求するより、掃除の方が先だった。三時間ほど黙々と除去作業を続けて、何とか床が見えるようになった。床には二年前の新聞が埋もれていた。同棲していた女性が出て行った日の新聞だと仙波が言った。

「メモワール仙波龍英」藤原龍一郎『仙波龍英歌集』より

これは、まさしく44歳の僕じゃないか。ぼくはあと2年で仙波さんの享年になってしまう。

あとで詳しく書くが、仙波さんは「春日井健論」を書くつもりだったらしい。ぼくの勝手な想像だけど、おそらくそれは「歌人」仙波龍英の短歌論ではなくて、おそらく「80年代文化の旗手」としての仙波龍英が、三島由紀夫が代表した「第二次戦後派」の「美」について書くようなものだったかもしれない。

そしてそう構想したとき、仙波龍英は歴史につながっている歌人だったとはじめて言えたと思う。彼はライトバースなどと括られるより、ちょっと異質で、むしろ「異文化から来た歌人だった」のではないかと思っている。

そして、私は新潟というほんとに何もないクソ田舎で、宝島社の本を読んでいた。怪獣画報や、ホラー、80年代のサブカルといった、アングラの雰囲気をまとった「いかがわしい」文化で、とてもいまの「きれいなカルチャー」ではないものに触れて育った。

短歌を始めて、私には穂村さんと枡野さんの間に引かれた線は見えなかったけど、ふたりともよく長島有さんという小説家を上げていることに驚いている。

実は恥ずかしながら、わたしは長嶋有さんという作家を知らない。今でも作品に触れたことがない。なんとなく敬遠している。長島さんが「ブルボン小林さん」だと知っても、「誰?」と思ったままだ。

こういう名前で私が知っている作家はむしろ「デルモンテ平山さん」。

ほんとに笑うしかない悲惨な出来のB級映画をめちゃくちゃ笑い飛ばしながら、「こんなのある?」っていうのを嘆くコラムを宝島に書いていて、それを愛読していた。

(あとでその映画のほとんどを平山さんは見ずに書いていたということを知って衝撃だったけど)

この人はいまは平山夢明さんという名前で、実話怪談を書いている作家であり、いろんなところでたまに見かける。

そう。私が書きたいのは、他ジャンルや日本の文化状況をテコにした短歌論だったり、私が「マスノ短歌教」に憧れながら、ついにそういった作品を書けなかった理由だったり、まあいろいろ。

わたしがきちんとした回顧録風の枡野浩一論を書くまで、わたしの命は持つだろう。

なにしろ近いうちに更新される記事なのだから。

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