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ロッポンギ歌会で思ったこと

歌会の批評用語について


久しぶりにさくっと短歌の文章を書く。

最近、とにかくたくさん文章を書き散らかしている。どういうふうに書けば一番読みやすいかというのを探るためだが、新しいアイデアの呼び水になることもあって、「対価のない原稿」とはいえ、おろそかにはしていない。

むしろ、「相手なし」で喋れるから、自分の頭を整理するのにすごい役立つ。

この前も書いていてふと、「歌の批評は「西洋の輸入語・翻訳語」を使わないほうがうまく言える」説を思いついた。もともと日本固有の文芸なのだから、「主体」とか「認識」とか、「理性」とか、もうそういう翻訳語は「使っても人の批評ででたとき」とか。なるべく言葉を正確に使おうと思っていて、そもそもイメージが難しいこういう「外来語・翻訳語」は人によってはわからないと思った。

実際にこの説を証明するために、とにかく歌会の場を探していて、たまたま14日の日曜日に二つ歌会があったため、進んで発言し、「日本の言葉」で説明しようとしてみた。結果はドンピシャである。自分でも「いい足りてない」ということがなかったし、反応も良かった。

夜の笹選歌欄の「ロッポンギ歌会」の様子を、「日本語のみ」の批評ってどういうものなのか、具体例をあげて再現してみる。

ちょうど参加者の千葉さんから質問があり、時間がなくてうまく答えられなかったので、文章にしてみたら「わかった!」と言われた。それをぺたっと貼り付けて清書して今日は終わりです。

実は他にもう一個でかい文章書いているので、そっちに集中したいです!

千葉弓子さんの質問


西巻:ちょっとぜひ題詠の意義というのを考えてほしいなと思います。題詠ってぼくが歌をはじめたときからあったけど、ぼくも「それが何か」を考えたことがなかった。

ただ、たまたまこの前の「未来」で、題詠が「竜」のとき、ほぼ全員「竜宮城」になっちゃった笹欄の歌会記を見たんです。もちろん偶然ではあるけど、この身の回りのことをイメージするって、せっかく題詠があるのにもったいないんじゃないか、と思った。題からなるべくイメージを遠くへ飛ばすのも、題詠の一つの意義なんじゃないかな、と思いました。

千葉:イメージの飛躍より、自分の身の回りのリアルを描写することの方が良い歌になることもありますけど、それについてはどう思いますか?

(ここからは後でご本人に補足した文章を回答に付け加えておきます)

西巻:ああ、どちらも有力な二つの方法だけど、「身の回りのリアルを描写する」と、「イメージを飛躍させる」って違う手法なので、それについて説明します。たとえば、今回の題詠はお祭りなんですが、「リアルを描写する方法」で行くと、

赤い字で「祭」ってかかれたうちわがあるじゃないですか。あれをよーく見て、うちわのプラスチックの骨組みのひだひだが何本あるかを数えたりして、「141本だった!」って感じるのはすごい発見だと思うんですよ。

そこまでいかなくても、描写って「写す」っていうことだから、しっかり「目」を使ったように書かないといけないです。これがまあリアリズムです。

ところがイメージを膨らますっていうのは、このやり方の真逆です。昔は「写実主義」の反対の言葉で「浪漫主義」っていう言葉があったんだけど、いま廃れちゃって見る影もないです。

最近はロマンというと、「恋のときめき」とか、ロマンチックなムードとか、そんな意味でしか使われてないけど、「文学や芸術のことばなんだ」ってそもそも覚えてない人も増えてきたと思う。

イメージとか夢とか幻視とかって言うけど、「ここ以外のどこかを想像する」ってこのロマンの領域です。想像なので「目を閉じていても」できる。

ただ、この場合、身の回りのこと「から」遠くへイメージを膨らますという「から」が、すごい大事です。

たとえば葛原妙子のこの歌。

他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水

作者はこの歌を「フライパン」から想像しました、って言っているらしいけど、どうかんがえてもわたしたちこれをよんでも「フライパン」だとわからないかな。「フライパンからこんな歌ができた」っていうのが読者のびっくりポイントだから、思いついたもの「から」遠くへ離れているのが大事だよね。

ところが、ぼくが言ってるのは「竜」からなんで「竜宮城」なのってこと。

今回の題詠を振り返ってもらいたいんですけど、

祭り → ゆかた
祭り → 北島三郎

こういう歌は、ダメ、というか、あんまり積極的に取れる気がしないです。

日本には「取り合わせ」っていうことばがあります。一瞬俳句の用語かな、と思うんだけど、俳句だけじゃなくて、いけばな(華道)にもあるし、「茶道」にもあります。

最近のテレビでも 〇〇といったら◯◯ って、つり革掴みながらやってるゲームあったけど…。

同じように平安時代から意識されてたらしい。

枕草子の冒頭なんておもいっきり「取り合わせ」の話じゃないですか。

春はあけぼの。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて(早朝)。

とてもセンスがいいね。となったんでしょ。

花鳥図とか柳燕図、っていうのがあるんですが「取り合わせ」はけっこう有名かも。花札の絵札にもなってるから、こういう感じなのだ、っていうのは一回歌人も見ておいたほうがいい気がする。

梅にうぐいす
柳につばめ
月に雁


現代短歌では厳密に決まってないけど、こういう「美のしきたり」みたいなのをしっかり知っておくと、

祭り に ゆかた

って、イメージの取り合わせでも飛躍でもないってはっきりわかるかも。ただの言い換えというか、西洋ではシネクドキと言ったりするけど、日本ではこれを美しいと思ったり、遠くまで言ったなあという感覚はないと思う。

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ということで、この回終わりです。
うまく説明できてると思ったら、ぜひイイネをお願いします。

また質問とかもあれば待ってます。(西洋語を説明のなかに入れないでしっかり説明する)という訓練になればいいと思います!

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