【ホラー小説】黒衣聖母の棺(12完)
(同一テーマで、ミステリ仕立てにした小説を公開中です。「【密室殺人】黒衣の聖母」)
(あらすじ)豊後の国が大友氏の領地だった時代、沖にある馬飼い島(魔界島)に、異国の難破船が漂着する。島に立ち寄っていた十兵衛は、血抜きされたような異様な乗組員の遺体を検分した。
そのころ島の娘、いさなは自分だけが知っていた洞窟で、異人の男に出会い、その男が守っていた棺のなかに、黒衣の少女を見た。
府内で宣教師に育てられ、受洗してジョアンという名を授かった久次郎は、浜長(はまおさ)のトヨに呼び出された。トヨは秘かに生き残りの異人を匿っていた。彼女は難病の孫を救うため、異人の信仰する異教にすがろうとし、久次郎に助力を求めた。
トヨに呼び出されて、その屋敷に参じる久次郎と十兵衛は、扉に心張り棒を噛ましてあった蔵の中で、こときれているトヨを発見した。
府内から破船の検分のため、代官田原宗悦らの一行が島に到着した。
久次郎や十兵衛も駆り出され難破船に乗り込んだ結果、生き残りはいなかった。十兵衛は船内で、黒い聖母の異様な気配を感じ取った。
代官田原宗悦は、抜け穴の存在を知っていた仙吉をトヨ殺しの下手人として牢に繋いだ。十兵衛はトヨの邪教の根を探るため、招福寺を訪ねて白蓮の弟である義圓に出会う。
台風が迫るなか、白蓮は浜長の屋敷から黒衣聖母の棺を強奪し、島の山頂にある城跡に運んで調伏の儀式を始める。白蓮は逆に、聖母に取り憑いた魔物の餌食になる。聖水の力でなんとか魔物を退けた十兵衛と久次郎。
翌朝、難破船の帆柱が折れるのを見張りが目撃する。十兵衛を入れた一行が難破船の検分を行い、帆柱に白蓮の遺骸が吊されているのを確認した。
島人を扇動して浜長の屋敷に押しかけた義圓を、検分吏は武力で鎮圧する。
いっぽう十兵衛は、さるふぃあが処方した薬は阿片であることを見抜き、いっとき快癒した茂作が急逝した理由を解き明かしてみせた。
義圓にそそのかされた村人たちが、異人の引き渡しを求めて浜長の屋敷に押し寄せてきた。異人はすでに脱出していたため、引き渡しを拒む検分吏ら屋敷内の人々と、村人の争乱に発展する。
村人が使う弩弓によって籠城した人々は窮地に立つが、牢抜けをした仙吉によって助けられる。さらに十兵衛が種子島筒(鉄砲)により、首謀者の義圓を狙撃したため、村人勢は崩れ去った。
さるふぃが短艇で破船に向かったのを見た久次郎と十兵衛は、再び破船に乗り込む。短艇を漕いでいたのはいさなで、破船にしのび込んでいた義圓に毒剣で刺されてしまう。
さるふぃは義圓を葬り、残っていた火薬を使って破船もろとも海に沈んだ。
瀕死のいさなを、久次郎の教会へ運び込んだ十兵衛は、彼女から混血であるという秘密を聞く。混血児のいさなを、十兵衛は美しいと言った。
十兵衛の前に"ろざりあ"に憑いていた魔物が現れる。魔物は自身の復讐を代行することを条件に、いさなを助けると言う。十兵衛はそれを承諾した。
(承前)
熱い――。
細雨啾々として雲低く、まさに日も暮れなんとする頃。
初夏の夕、天を焦がすように赤々と燃える火が辻々に飛び火し、往来は軍馬とともに家財を台車に乗せて逃げ惑う人々で混乱していた。
街道は竹矢来や土嚢で封鎖され、逃げゆく者たちは厳しく吟味されている。
ひと世代前ならば京の民はいくさによる蹂躙になれていたが、ここしばらく平穏が続いたため、その身過ぎも慣れぬところがあった。
水色地に桔梗紋の旗指物を背負った騎馬武者が、隊列を組んで駈けてゆく。胴丸具足を付けただけの足軽隊が整然と後に続く。その統制された隊列は、主の性格を現していた。
「日向守謀反。惟任明智日向守の謀反じゃ」
応戦する兵がほとんどいなかったため、いくさは中心となる法華の寺に集中した。
本能寺――
日の本をほぼ手中にし、第六天魔王とも称された端正で美麗好みの男は、敦盛を舞ったのちに自刃して果てたとのちに言われた。
しかしそれは実際の火勢と混乱を知らぬ者のつくり話。実際は流れ矢にでも当たったか、傷を負ったのちに近習に首を掻き切らせたか。
無理と知りつつ生け捕りを命じ、悪くしても亡骸を回収して絶命を確認したかったが、攻防のときはもとより焼け跡の瓦礫の中からも遺体は見つからなかった。
その最後に煙硝蔵に火を放ち、壮絶に自爆したからである。
光秀は燃えさかる炎を見ながら、若き日に体験した南蛮船の爆発を思い出していた。
それからわずか十日、十兵衛光秀は夜中に目を覚ました。寝苦しいため帷子を脱ぎ、具足を外した。
供回りわずか十騎ほどで坂本へ向かう途上のことだ。
天下人たる地位をほぼその手に治めていた主君織田右府信長を弑し、かりそめながら天下を掌中にしていたのが嘘のようだった。
ふと、皮相なかたちでその願いを叶える黒の聖母を思い出した。かの聖母に天下を祈願したのは夢だったのだろうか。
いや。
光秀はどのようないくさ場にも、常に携行させている長持ちを見やる。
夢ではない。
ではこの十日ほどの天下掌握も、あの黒衣聖母の悪意ある夢の成就の結果なのか。
満点の星空を仰ぎ見ながら、過日のことが次々と蘇った。
早くに鉄砲の可能性に目を付け、その技量に長じて越前朝倉に仕官したこと。一乗院門跡の覚慶を拾い上げ、足利義昭として将軍職に就けたこと、などのことどもが昨日のことのように思い出された。
思いはさらに若き頃に飛翔し、豊後大友氏領内の離れ島、通称魔界島での不可思議な体験に戻った。
あの頃隆盛を誇っていた大友氏も、いまや織田氏に恭順を示すようになっている。
黒衣聖母のなりをした異形との約束が果たされるなら、天下をこの手に治めることは保証されていたはず。
約束の相手は魔物だったが、説得力のある契約だった。
どこからか、夜鷹の鳴き声が聴こえる。
夜道に筵を敷いただけの仮宿だが、忠実な作左右衛門と帯刀は、言いつけを守って黒衣聖母の棺を傍らに安置していた。信長公の下で各地に転戦したときですら、かたときも放さず戦場に連れて行った棺だ。
思いはまたも本能寺とその後のことどもを巡る。
筑前(秀吉)めが、まさかこれほど疾く返してこようとは思わなんだ。織田家中でやはり譜代ではなく実力によってのし上がってきたこの同輩を、光秀はもっとも油断ならぬ相手と見なしていた。
そのため、彼が毛利相手に身動き取れぬこの機会を利用して信長討伐に動いたのだ。
光秀の読みでは、権六柴田勝家が織田家の弔い合戦の先頭に立つはずだった。
いくさの相手があの男ならば、間違いなく勝てた。初戦を制した勢いは、実力に勝る筑前をもしのぐ弾みとなるはずだった。
それがどうだ。
予想もせぬ速さで毛利氏と和睦し、大返しに返してきた羽柴の軍勢に、味方に付くと思っていた組下がことごとく寝返る結果となった。
やはり、いくさは魔物じゃ。その魔物の心を掴む機略に、筑前のほうが長けていたということか。
光秀はかたわらの黒々とした棺を見やる。
信長公の遺骸は見つからなかった。灰と化したか、転生した者は遺骸を残さず消滅するのか。
疲弊した頭は同じ事をぐるぐると巡った。いつしか近習の姿も見えなくなり、闇があたりを包む。
時は今雨が下しる五月哉――
愛宕百韻での光秀の発句は、「土岐は今、天が下識る五月哉」と解釈され、本能寺での反逆の決意を詠んだものとみなされた。
光秀の明智家が美濃の名流土岐氏の流れを汲むがため、土岐すなわち己が天下を獲るとの意思を表したと思われたのである・・・・・・が。
光秀は、今様を吟じるがごとくに謡った。
時は今、
時は今。
――朱(あけ)が滴(したた)る五月哉。
「二十年ぶりじゃな!」
闇に向かって語りかけた。うすぼんやりと白んだ煙のような形が、ある一点に収束する。
それは、闇に浮かぶ黒衣をまとった異人のおなごの形をとった。
「相も変わらず美しい。儂はこのようになってしまったがの」
薄くなった月代を叩いてみせる。筑前ならばもっとうまく剽げてみせるのだろうが。
「キンカ頭と蔑まれたからではないが、我が主を討ち取ったところじゃ」
織田弾正忠信長、血の盟約通り汝が仇”ぼるじあ”の血を引く者を討ち取ったぞ。
「その者は、転生した我が仇敵ではありませぬ」
聖母の言葉が、以前と同様頭の中に直截響いてきた。
十兵衛光秀はかっとして、思わず声を荒らげた。不思議なことに、近習は深く寝入っており、たれも駆けつけてこない。
「胡乱なことを言うでないぞ。そなたが見せた南蛮の武将の幻と、信長公ほどに似通った天命を持つ者はおらぬぞ」
共に有力な父、チェーザレは法皇ロドリーゴ、信長は守護代信秀のもとに誕まれた。そして長子でありながら、己よりも父母の寵愛を受けた実の弟ガンディア公ホアン、勘十郎信行をその手に掛けて地位を簒奪し、美しき妹ルクレツィア、お市の方を政争の具としてさらに勢力を拡大した。
法皇の庶子にして”悪魔の子”と呼ばれ、一方比叡山の焼き討ちなどにより第六天魔王と称さる。
端正な顔つきであり、その性冷酷でありながら当時普通の行いだった略奪を軍には厳しく禁じた。
信長は叡山焼き討ちなどを行いながら、一銭切りと呼ばれる厳しい軍律により私略を禁じている。
ふたりとも武人の枠に留まらず軍制、いや社会制度の改革者でもあった。
十兵衛光秀は信長の側に居て知っている。巷間うわさされているように、信長は越後の龍(長尾景虎)や甲斐の虎(武田晴信)など微塵も畏れていなかったことを。
景虎(上杉謙信)や晴信(武田信玄)は所詮、農閑期に遠征する略奪軍の大なる者に過ぎない。
両雄は戦巧者であり、百戦すれば信長は百度負けていたろうが、消耗の果て両雄は自壊し、百一回めの戦いはなかったはずである。
信長の軍は完全に田畑から切り離された専従軍団だった。
美しき悪魔にして慈悲深き御仏。
信長が自称したとされる第六天魔王は牛頭天王の子であり、ボルジア家が赤牛を紋章とするのもまた、その祖系に絡むゆえである。
チェーザレ・ボルジアと織田信長。
このふたりほど似通った境遇、性格をもつ武人、為政者はいない。
「転生を為した者は、同じ生き様を繰り返すと申したではないか!」
ゆえに、南蛮の武人が転生した上様、いや信長公をば討ったのじゃ。
黒衣の聖母は嘲笑った。
その笑みを見た光秀の自信が揺らぎ、自問していた。
いったい、なにを間違った?
「このような姿をしておりますが、本来我ら闇の眷属に性はありませぬ。尋ねますが、汝らはなぜおのこを主体に自らの世を考えるのです?」
光秀は一瞬、虚を突かれた。
まさか・・・・・・
「まさか」もう一度声に出して言った。
ルクレツィア・ボルジア。
その美貌を政争の具として父、兄に利用された悲劇の女性。
しかし奔放に惚れた男と睦み、飽きれば別の男へと興味を向け、振り回されていたのは、いつも男の方ではなかったのか。
御市御寮人。
美女の誉れが高かったが、浅井家に正式に嫁いだは二十歳といかにも遅い。あれだけの美貌ならば縁談は降るようにあったろうに。
奉行の間では、浅井長政との仲が初婚ではなかったことは、公然の事実だった。
長政は市好みの武張った男であり、最初の夫を捨てて長政のもとに政略婚を持ちかけるよう兄信長に迫ったのは彼女から、との噂があった。
金ヶ崎での朝倉氏との決戦で、市の夫であった長政は信長を裏切る。
いかにも奇妙なことに、お市の方はこの裏切りをいち早く信長に通報したうえで、主人である長政と離別させられた悲劇の女性との座に納まった。
長政との間が冷えた彼女の、策略が見え隠れしていたにもかかわらず。
お市には、子どもを実の兄によって殺された悲劇の母という影がついて回るが、実のところ長子の満福丸様を愛でている姿を見たことがない、と言われていた。
女御どもは情がうすいと囁いており、滅多な噂をするでない、と光秀自ら叱ったこともあるが、案外同姓の噂話は真を突いていたのかもしれない。
ふたりとも、美貌を政争に利用されたのではなく、実は父や兄をたばかって、奔放に好きな男の間を跳梁していたのではあるまいか。
るくれちあ、なるおなごが転生してお市の方として蘇った?
「自ら予期せぬ死を迎えた兄チェーザレではなく、天寿を全うし、好きな男の間を巡る生を享受したルクレツィア・ボルジアこそ、我を罠に嵌めて死すべき人の運命を翻し、転生を果たした者にほかなりませぬ」
「なれば、”ちぇざれ”なる兄君と同じ生を通した信長公をなんと解釈する?」
「転生した者に付随して蘇った付録に過ぎませぬ」
瞬間、光秀は絶句した。
そののち笑った。哄笑した。
信長のみならず、浅井長政や筑前秀吉、将軍義昭までもが転生したひとりのおなごの第二の生に翻弄された付随物に過ぎなかったのか?
これが笑わずにいられようか!
そして、ルクレツィアの兄であるチェーザレが僚友の裏切りにあって最後を迎えたように信長を裏切って討ち取り、相似形を完成させたのが、ほかならぬこの自分であろうとは。
昔日ちらと見たことがある市の姿は、黒衣聖母に似ていた。美しく邪な魂を宿しているように思えた。
「彼の者の命運は尽きました。近いうちに北の国にてその命脈を絶たれましょう」
柴田勝家は彼女にご執心じゃったな。市はやはり武張った男が好みか。
北の庄がその転生の最後の場所となり、命を散らすことになるわけか。
聖母は笑みを浮かべた。人智を越えた酷薄な笑みだった。
「彼の者は、死するもならず生きるもならず、永遠に続く煉獄に落として進ぜましょうぞ。我が力を侮った報いとして」
はかなく、脆く、その美貌がゆえに運命に翻弄された美しきひと。
しかし、実際は転生を行ってまで欲望をかなえようとする我執の強い女。
南蛮で産まれし”るくれちあ”なるおなごが蘇り、信長をはじめとする我らの生はその背景でしかなかったのか。
光秀は笑った。あまりに笑いすぎて涙が出た。
我らが生は、この國のありかたは、ひとりの女の我執に翻弄されたものだったのか。
「よくぞ、ここまで虚仮にしてくれたものよ」
若き頃に会った、ぱーどれ、久次郎を思い出した。あの男こそ、聖母らに翻弄され、一生を狂わされた者ではなかったか。
いやちがう。狂わされたのは自分自身だ。
*
「よき手立てがある。遺骸の始末は任せておかれよ」
十兵衛光秀は、変わり果てた白蓮の遺骸を菰に包みながら言った。城跡で惑乱した久次郎が、死にかけていた白蓮を手に掛けたときのことだ。
明けて六つ刻。
光秀の姿は、見張り小屋の対面にある崖の上にあった。離れた場所に見張り小屋が夜目にもくっきりと映っている。
うっすらと白い月の下に破船が見える。その距離は目測で四,五十間か。
光秀は大事に抱えてきた種子島を取り出すや、竹筒を使い胴薬を口から注いだ。
やや湿った空気を嗅ぎ、さらに標的までの距離が遠いことを勘案して一回分にさらに少量を注ぎ足した。
あまり胴薬を多くすると銃身が破裂することがある、と言われていたが、ままよ、と覚悟を決めた。
常用の三匁半ではなく、削って三匁にした弾を銃口から入れ、軽杖(かるか)で突くときゅるきゅる、という音がした。
火皿に竹筒から口薬を注ぎ入れる。着火石を二個、左手に握るとその間を通して締め付けた火縄を勢いよく引いた。
いいぞ――
光秀は火縄に白い煙が上がるのを見て、笑みを浮かべた。一度で首尾良く着火したときに、的を外したことはない。
火縄を火挟みに装着し、火蓋を開いて心気を静め、息を整えた。
照準を片目で見る。夜明けの刻限は特に距離感が掴みづらい。うっすらと南蛮船の中央帆柱をとらえた。
必中射程は二十間。
この距離内なら狙った的を確実に射貫くことができるのだが。
四,五十間も離れた打ち下ろしの標的である。しかものちの時代の回転する椎の実弾ではなく、どこへ飛んでいくかわからない球弾だ。
巨大な破船そのものに当てるのも難しい。
当たればよし、当たらねばまた別の手立てを考えよう、と思っていた。最初立射で構えたが、思い直して膝を立てた座射に変えた。
右肩に台木を当て、目当てを的に重ねるや、ゆっくりと引き金を絞った。
遠く雷の音がしていたが、集中する光秀の耳には入らない。
ターン。
鋭い音がして鼻孔の奥を刺激する臭いが立ち上った。
弾は狙っていた帆柱からは逸れた。しかしやや外れた帆布に当たり、それが破れる勢いで帆柱がぎしっ、と音を立てた。
期待していた以上の効果に、南無八幡大菩薩と唱え、自分はやはり切支丹にはなれぬな、と苦笑した。
見張り小屋を見ると、張り番の若者が慌てて外に出てくる気配がある。十兵衛は急いで種子島を抱えてその場を退散した。
田原宗悦のもとで控えていると、予想通り破船で起こった異変の注進が入った。
たれも検分には行きたがらず、十兵衛が検分するとの申し出は受け入れられた。それでも田原信濃が同行したのは予定外だったが、うまくあしらう自信はあった。
信濃が乗艦に苦闘している間に、船の反対側に回った光秀は菰に包んで舟底に隠していた白蓮の遺骸を背負うと、身軽に破船の甲板に昇った。
遺骸は血を抜かれて軽くなっていたのが幸いした。
甲板の傾斜がきつくなっており、滑るのに注意しながら白蓮の遺骸の首に帆柱からの縄を巻き付け、直前に降ろした体にした。
船体は浜側が上がるように傾いており、一連の所作を浜から見られることなく準備を終えると、縄梯子を垂らした。
「遅いわ!」
文句を言いながら信濃が昇ってくる。
「申し訳ございませぬ。あれが吊されておるのを、そのままにも出来ませぬゆえ」
たったいま首に縄を巻き付けた白蓮を指すと、信濃は意気地なきことに、気持ち悪そうに口を押さえた。
「これは、本当にあったことなのか、それとも阿片がみせた幻だったのか」
光秀は、傍らの黒い棺を見る。中には間違いなくいさながいた。
いさなは、黒衣聖母に血を吸われた日よりほどなくして、棺の中で目覚めた。
初めて目をあけたとき、吸い込まれそうな青い瞳が、生まれたばかりの赤子のように頼りなげに映ったことを思い出す。
いさなは光秀が止める間もなく、傍らにあった己がくるすを手に取った。
異形の者は十字架を畏れ、手に取ると火傷を負うはずがいさなはなんともなかった。
「異なことよ。異形なる者はくるすを忌避すると久次郎殿に聞いておったが」
信仰をもったまま異形と化したためか、いさなはくるすを畏れなかった。しかし他の属性は闇の眷属のものを受け継いでいた。
「鏡に写らぬ」
異形となった己が姿を確かめようと、手鏡を見たいさなは悲しそうに言った。
「これからは、儂が紅をさしてやろう」
光秀は人差し指に紅をすくい、いさなの唇をなぞった。犬歯に指がふれ、すっ、と切れる。痛みはほとんど感じなかった。
「すまぬ」
いさなは謝りながらも、押さえきれぬ性に身を任せて光秀の血をすすった。腕をいさなに差し出し、己が血を分け与えたとき、光秀にはむしろ喜悦が走った。
光秀は黒衣聖母の棺にいさなを収めて、いかなるいくさ場にも帯同した。
昼間の光から彼女を守り、夜は血を与え、まぐわった。
月が青い夜は、ふたりで屋敷の庭を手を取り合って歩くこともあった。
「また、あの青い海を泳いでみたい」
いさなの唯一ののぞみは、もはやかなえる術がなかった。
やがて日焼けした彼女の肌からは色が抜け、本来の白い肌となり、異形と思えた相貌は妖艶な、この世のものとは思えぬ美しさへと変貌した。
明智日向守の妻女は、この世のものならず美しい、との評判が、織田の家中に広まった。
夜の宴で、ひとめいさなを見た藤吉郎と呼ばれた頃の秀吉などは、
「ああも美しゅうては、勃つものも立たぬわ」と、独自の諧謔を込めて嘆息した。
しかし、ふたりは周囲の声など気にせず、永遠の命を一瞬のために燃やすように互いを求めた。
「日の光がまぶしく感ずるようになってきた」
月を見上げながら光秀は言った。
「いさなに血を分け与えておるうちに、我が身にも闇の属性が備わってきたか」
「血がうすい。汝は完全な我が同族にはなるまい。汝らの年月で百年程度の寿命は得ようが、不死にはなるまいて。
その代わり、昼間でも火傷を負わず動ける体じゃ」
「浅ましき体になろうと、生き延びてみせようぞ」
光秀は答えた。
「行き延びて、なんとする?」
「よう、わかったわ。儂自身は天下を獲る器ではないことがな。したが、己が才を注ぎ込み、天下人たらしめたい器を見出したのじゃ」
信長の側で働くうちに見つけた一個の器量。その名が脳裏に浮かぶ。
今のままでは天下を獲ることはできても、天下人になることはできぬ。
黒衣の聖母は微笑んだ。
悪意に満ちた笑み。――我執こそ我が好餌。
*
明智十兵衛光秀がのちに天台宗に帰依して天海と称したのは、若き日にその一端に触れた海門の一字を頂いてのことか。
松平元康を補佐し、のちの天下人徳川家康となした参謀、南光坊天海僧正は、当時の記録を信ずるならその没年で齢百と八。異例な長寿である。
その美しさを写し取ることができぬゆえ、鏡に写らぬと言われ、明智日向の三女とされた玉子、のちのガラシャことロザリオをまとった不死人を見守るがごとく寄り添いながら、黒き聖母は異なる言葉で囁いた。
この島国ならば、メシアの教えを禁教として、忌まわしき聖書や聖水、十字架を絶やすことができよう。
まだまだ、楽しめそうじゃ。
闇に哄笑が谺した。 (了)
(主な参考図書)
「黒衣聖母」芥川龍之介
「海賊丸漂着異聞」満坂太郎 東京創元社
「江戸時代流人の生活」大隅三好 雄山閣出版
「大友宗麟の戦国都市 豊後府内」玉永光洋・坂本嘉弘 新泉社
「漂着船物語」大庭脩 岩波新書
「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」塩野七生 新潮社
「ルネサンスの女たち」塩野七生 新潮社
「歴史REAL Vol1」 洋泉社
ウィキペディア WEBから
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