Back to the world_007/エビが3匹ラッパを
今朝は初めて渡船での通学だったので、始業まで15分の余裕があった。
「マジか!」
「マジかマジか」
教室に入ると佐内のまわりに人垣ができている。ソープランドの裏で女性がスケベ椅子を洗っていたという事になっていた。
純は正直佐内のホラ話に驚き、一瞬どうしたものかと思ったが
「ホースからほと走る水しぶきが最高に美しかった、逆光で。まさしく陽が落ちんとしていた時かな」
と腕組みして秘境探検番組のリポーターのように大仰に語るとうおお、と場が沸いた。
「金があったら、俺たちも行けるのか?!」
ニキビだらけのお調子者、三好が叫んだ。
すでに、ソープ嬢は幸薄い系統の美人だという事になっていた。
「それがさ、『いいよ、バレなかったらなんぼ来ても』って言われたんだよ!
「なんぼ!うおおお」
純の中では機転を利かせて助けたつもりもあったのだが、佐内はそこでやめずにさらにヒートアップする。特に動揺しているようにも見えず、悪意のない顔で話を続けた。
「高校生の男の子は可愛いって」
「うおおおお!貯金!貯金!貯金!」
長身の野球部員小笠原が机にしがみついて腰を動かし始めた。動物みたいなヤツ、と思って距離を取っていた男が佐内の話に夢中になっている。
「貯金を使うゥ〜〜〜!うおおおお!」
純は佐内が絵に描いたようなクラスの人気者ーーお調子者として振る舞う事に抵抗を感じた(もう少し知的でニヒルに振舞って欲しかった)が、同時に彼ら佐内一族の持つ力には一目置いていた。
『一族』と言うのには訳がある。純は入学してすぐの土曜日に佐内の家へ遊びに行った。海岸近くの豪奢な建物で、2階から水平線に沈む夕陽が見えるという。
そこは純たちの高校近くの漁師町とはまた別の漁港の町だが、東側にある海水浴場が有名で、街は多少こぎれいだった。さつま揚げーーこの地方ではなぜか『天ぷら』と呼ばれている魚のすり身を揚げた惣菜で佐内の祖父が財を築き、家はご近所から『天ぷら御殿』と呼ばれていた。庭には祖父の建てた派手な色の大きな観音様が鎮座している。
純と佐内は玄関に荷物を置くとすぐに海へ出かけ、堤防の下の岩場からボラの群れを探しては石を投げていた。頭上からのんきなメロディの口笛が聞こえ、続けて
「ボクちゃんよう、お父さん、これからピザパイを焼くよ」
という声がした。見上げると、半ズボンにTシャツ姿の中年男が両手をポケットに突っ込んだまま笑ってこちらに会釈した。
青空と雲をバックに、入れ歯なのかどうなのか?歯が真っ白だ。特にハンサムという訳でもないのだが、なんとも人好きのする風貌をしている。胸にはクレヨンで書いたような『San Francisco』の文字、その下には漫画っぽいロブスターが3匹並んで楽しげに管楽器を演奏しているイラストが描いてあった。男は踵を返して、ぺたぺたとサンダルの音をさせて先導し始めた。
「行こ、ピザパイ美味いよ、ジェリー選手。あ、あれうちの親父ね」
佐内は今年16歳になる高校生にしては『ボクちゃん』などというふざけた呼び名で呼ばれた事を恥じる事もなく歩き出したので、純は楽しくなり顔がニヤけてしまった。面白い!
何よりこの飄々とした父親だ。純にとって父という存在に一番近いのは『雨ニモマケズ』の主人公のような叔父になる。従って佐内の父親の、コメディドラマに出て来る若旦那のような立ち振る舞いは衝撃だった。自分だったら親に『ボクちゃん』なんて呼ばれたら「うるせえ、ババア!」と怒鳴ってしまうかもしれないと純は思った。
家に着くとなんという事か、家族たちは祖父が『坊主』と呼ぶ以外は妹までが佐内の事を『ボクちゃん』と呼んでいた。窯で焼いたピザは極上、広い庭には適当に手入れされた芝が敷いてあり、海風が心地良かった。
「ねえ見て、純ちゃん。いやンなるね、もう。調子に乗ってさ」
佐内の母晴子ーー60年代の流行のような細すぎる眉が気になるが相当の美人ーーは微塵の迷いもなく純を最初から『純ちゃん』と呼んだ。見せてくれたアルバムには、中央で尻を出した幼い佐内がカメラに向かってあかんべえをしている家族写真が貼ってあった。楽しそうだ。
「もう笑いが止まらなくて!カメラマンの知り合いが撮ってくれたのよ!」
サザエと『天ぷら』をダブルで載せたピザを頬張りながら佐内の妹美園が言う。写真から笑いが溢れている。ミュージシャンでもロックスターでもないのに、この世に生尻を出して家族写真に写る子供を笑って許す親がいるなんて!
この時代に庭に窯を作ってピザパイを焼く半ズボン姿の父親は珍しかったし、遅い昼食としてのピザとバーベキューは純にとって初めての経験だった。佐内の父哲三は天ぷら屋の専務に収まるまではタンカーに乗って世界を周っていたのだと言い、急にカンツォーネを歌い始める。全てがカルチャーショックだった。
「もうイヤ、お父さん、恥ずかしい、サンダルで」
晴子が口を押さえて恥ずかしがり、哲三の背中を笑いながら叩くのだが、純にはこの状況でなぜ恥ずかしい箇所がサンダル履きなのかがわからなかった、愉快だった。
カンツォーネは途中からかなり適当になり、演歌調の鼻歌に変わって行った。純も佐内もビールを一杯だけ飲まされて、良い気分だった。さっき死ぬほどダサいと思った緑の芝の上に立つカラフルな観音様が愛おしかった、これでいいのだと思った。
アルバムの写真群は純にとって刺激的で、まさか友人の親からこんなに笑わされるなんて予想もしていなかった。1980年代半ば、親子にはそれなりの距離があるのが一般的だった。
哲三はいろんな国のいろんな酒を飲んで良い具合に出来上がっていた。
「この写真はね、おいちゃんが飲み屋で知り合った人たちとね、海水浴に行く約束をしたの。『あんた子供がいるのかい、ヨシそれじゃあスイカを持ってってやろう!』って言ってくれてね。そしたらね、当日大勢でやって来てね、、、全員が刺青者だったのよ!」
見事な刺青を背負った男たち(弁天模様の女も2人ばかり)に囲まれた佐内一家たちがばらばらに割れたスイカーーおそらく20個ぶんはあったのだろうーーを手に、砂浜で笑っている痛快な白黒写真ーー。
「まあイヤ、お父さん、恥ずかしい人、スイカなんて!」
「酒を飲んでる時は長袖だったから、暑くないのかとは思っていたんだがね」
「『だがね』じゃないのよ!お父さん、気取っちゃって!イヤ、もう!」
晴子は全然嫌そうではなかった。
「組長さんみたいだったのよ」
「職業をハッキリと断言した事はなかったぞ、ははは。どうしてるのかなあ」
西陽を背に逆光で話す佐内の両親が文字通り眩しくて、純は目をしばしばと細めながら存分に笑った、水平線に陽が沈むまで。
祖父の保造は肉を焼いたり鉄アレイを持ち上げて見せてくれたりしていたが、途中からずっと、階段の壁に趣味で集めているらしい小さな提灯を並べ立てていた。佐内が小さな声で言う。
「保造はほんとに好きなんだよ、提灯が」
純は、友人と話す時に自分の祖父や両親の事を下の名前で呼ぶ佐内の感覚が最高だと思った。
少し悔しかったので週明け級友たちに、
「哲三が青空バックに現れたんだけど、エビが3匹ラッパを吹いてるTシャツ着てたんだよ、すっごい能天気な男でさ」
と無礼な来訪者を気取って言いふらし、笑いを取った。
ーー純が一瞬で佐内家での出来事を反芻したその時、
「やっぱりアレか、ソープ嬢、目が充血して肌が乾いてた?」
田島というハンサムな男が表情を変えずに割り込んで来た。佐内とは旧知の仲のようだ。
「う~~んまあ、どっちかって言ったら…そうなるかな?」
「…ふむ」
田島の訳ありな大人びた態度に、辺りの空気が変わった。
「何?目が充血って何?」
といつもだるそうな金津が興味を持つ。
「あ、うん。セックスしすぎるとなんか、女はそうなるんだよな」
「マジか?」
「うん。ホルモンの影響らしいとか何かで読んだな、まあ、俺もそうかなって思うな、ウン」
始業のチャイムと同時に皆が反応した。
「ええ~!」「知らなかった」「お前、兄貴いたよな?」「いや、聞けないってそんなの」
騒ぐ者、黙る者、まじまじと考えをめぐらす者、教室が男子クラスらしい雰囲気に包まれた。
純はまじまじと考えを巡らせている男の一人ーー清水と一瞬、目が合った。彼は一瞬遠慮がちに微笑んだように見えた。
「やかましいな、お前らはいつもいつも。席につけ」
つかつかと今田が入って来る。小笠原を筆頭とする野球部の動物軍団が一斉にダミ声で声をかける。
「オイース」「オイース」「オイス」
今田は下唇が出た人気コメディアンに似ており、親しみを込めてその芸風を取り入れたからかわれ方をされていた。
「バカどもが!えー、今日は欠席はないな?よし」
今田はいつものやりとりを『自称ワル』たちへの簡単なサービスとして事務的に『やってやる』。動物軍団が満足し、ザシザシと畑の霜を踏んだ音を下品にしたような声を発して笑う。
いつもと変わらない朝だった。■