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酒とビンボーの日々 ⑦ビンボーで二度死ぬ

いかんせん、どうあがいても「ビンボーは二度死ぬ」のである。

唐突に強烈に始まるこのタイトル。うーん、いいねえ。
いずれ人間は死ぬのだが、ビンボーは人間を2回殺すという訳だ。

1度は精神的にブチ殺し、
2度目にじわじわ貧困に苦しみぬいた肉体を死に至らしめるのである。
死神よりも恐ろしいと言っていいだろう。
ビンボー神の存在は関わった人間に生きながら殺される生き地獄を体現してくれるに相違ない。

当の僕も何十年もかかって殺されている最中なのである(苦笑)

ここまで僕はどうにもならぬ、
心臓に刺さったまま抜けない矢じりをビンボー神にゆさゆさと揺すられ激痛のまま生きてきた。
このまま抜けぬ矢じりの痛みに呆然としながらその人生を過ごすのである。
ただ、酒にはその痛みを軽減する力がある。だが、それに頼りすぎるとトンデモないことになるのは必然だろう。

僕は、パソコンで金持ちたちのリア充をネットサーフィンして身を焦がしながら、酒を飲む。今日はちょっとだけ体調を考えてお湯割りにしている。
今日は築地場外市場へ行った50代の夫婦のチャンネルを観て、すでに
「催して」しまっている。
5000円もする海鮮丼を食べながら「たまにはこういうのもいいわね」なんていう口走るそいつの妻に殺意を感じながらお湯割りをちびりちびりする。東京に田舎もん丸出しの変なシャツで来やがって。

そうはいうものの、

5000円の海鮮丼、うらやましい。
雲丹の食べ比べ、6000円、うらやましい。

僕にはそれらの代わりに、安く買った五穀クラッカーにチーズをのせて焼くだけの簡単なもので済ましている。そこにクミンシードを散らせたら最高だ。だが、そんなものを買う余裕は小遣い2万円の男にはない。
クミンシードだけに種は撒けない。なんなら種もみを買うあてさえない。

五穀クラッカーに溶けるチーズを載せて焦がさないようにトースターで焼くだけ。これが美味い!

もう10年以上も前のことだが、
その頃は子どもが生まれたばかりの時で、ダーバンのスーツで出勤し、
短い脚を組んでまるでトップ営業かのような大きな声で、
営業電話をしていた。
実際にその電話で鬼のような金額を上げていたから、
ダイナマイト電話、通称、Dコールと部下に呼ばせていた(笑)
とにかく一番であるためには稼ぎ続けなければいけない。
そんな焦燥感に焼かれていた頃のことを思い出す。

こんな僕でも頑張っていた時があるのだ。

もちろん、子どもの寝かしつけやらミルクやらで、夜中は子どもの世話をしながら、昼は仕事をし、夜は飲むときは飲みに行っていた。睡眠時間は3時間から4時間だったかと思う。

僕は自分の身体は強靭だと思いこんでいた。
鶯谷のジョニーをなめるなよ、いや、〇〇ろよ。
という具合に(笑)

あるとき、
僕はある宴席で酒をのみながら意識を失うという失態をやらかした。
飲んでいる席で倒れてしまったのだ。
救急車を呼ばれ、あとから寝不足などによる疲労と過度の酒量が原因だと言われた。その時に、若くないんだからね、と自分よりも年上の看護婦に言われたことが、その後の僕の人生の下り坂を象徴していた。
急性アルコール中毒ではなかったのだが、接待で絶対に酔うことがなかった自分自身の健康を疑問視したのだ。

色んな健康食品やサプリなどを買って試してみたが、満足のいくものはそうそうなかった。
その後も、とことん飲むとブラックアウトを繰り返した。

終電まで飲んでしまうと神奈川県の先やら、中央線の奥の方まで行ってしまい、タクシー代がバカにならなかった。
その時も自分の老化を信じることができなかったのだろうと思う。

このころはまだ年収も落ちることなくまだ上がり続けていたときだった。
身体は衰えてきたけれど、まだまだ大丈夫なはずだった。

そして、コロナがやってきた。

もちろん世間も会社も混乱の極みになった。そのなかでどう生き残っていくかがポイントになった。生き残れないやつは死ねと公言していた真っ最中だ。これは僕自身が生き残れるのか?という疑問に苛まれることになった。

毎日が恐ろしかった。

僕は呆然と世界を観ながら、戦慄を隠せなかった。これまでの営業スタイルを全否定されたかのようなやり方、つまり人に会わない営業って何をしたらよいのか理解に苦しんだ。

テクノロジーがある程度、そういう不安を緩和することを知ってからはなんとか青息吐息で業績を上げられるようにはなったが、全体的な落ち込みから逃れることはできなかった。市場自体が一気に縮小したからだ。
商品開発も停滞し、新商品が出なくなった。
こうなると営業も売り上げを立てようがない。過去の商品を焼き直したり、するもののそこまでの業績回復は見込めるわけがない。
なんという時代だ、と思った。

すると業績悪化により、年収は減らされざるを得ない。
前にも書いたが、往時の金額よりも200万近く年収がさがってしまった。
それはそのまま家計にも直結する。子どもの学費はそのまま変わらず、いや、色々な名目でむしり取られるものも多いから増えているという感覚であるし、自分は小遣いが2万円という衝撃の現実から立ち直れそうにない。

お金は自信だ。

お金があるからできることが現世にはたくさんある。
それを閉ざされてしまうのは自信がなくなることと同義である。

いや、お金よりも大事なものはあるし、自分自身がしっかりしていれば大丈夫なはず!という盲目的で浅はかな信念の方々も意外に多いのだが、
そんなフェイズを変えたって現実に「お金がない」のである。
まず、経済と言うものが貨幣で成り立つ、貨幣経済という視点を見落としてしまうとそこからの精神論など薄っぺらいものになってしまう。

そういうものから離脱すると言うことは「社会から脱落する」と言うことである。その代償は大きく、重いものになる。
僻地の掘立小屋で自給自足で年間ウン万で過ごしている家族の特集をやっていたけど、そんな人たちだって貨幣経済からは逃れられないんだから(笑)

僕は家族が離散するなど考えたこともないし、
子どもが笑わない家庭なんかちっとも楽しくない。
妻がそばにいてくれて、どうでもいい話を何時間もするという楽しみがなくなってしまうのは身を割かれるよりもつらい。
お金がないというのは、そういう現世的な楽しみを根こそぎなくしてしまうということなのだと知ってほしい。重たいのである。

なんとなくもらっている給料ってどんな使われ方をしているんだろう?と考えたら、物価や税金の高騰なんかにもっと敏感になるべきだと思ったよね。選ぶ政治家だって今のままでいい訳がないんだ!

いま、異常なぶっこみ方をしたけれど、政治や経済や社会のいろいろなことに目を向けていかないと家族との団らんがなくなっていく
これは僕たち、現在40代後半から50代の第二次ベビーブーマーたちの在り方に掛かっていると言ってもいい。いちばん人数が多い層なのだから、いちばん給料から税金として中抜きしやすい層だし、消費のターゲットとされているのも僕たちの世代なんだ。

割を食わされるのはバブル世代以降の僕たちなんだ。
いま、あなたもビンボーに殺されかかっているかもしれないんだ!
もっと真剣に考えていこうぜ。


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