自己紹介 | あなたとつながりたい
初めまして。三神良子(みかみりょうこ)です。
これまで提供している講座のお知らせ用にnoteを使っていましたが、改めて自分をオープンにして、多くの方と繋がりたいと思い、自己紹介をさせていただきます。
【noteの目的】
「コンパッション」という素晴らしいメソッドを社会に広めていきたいと思っているのですが、そのために、私がどういう人なのか、コンパッションが私の人生にどんな影響を与えてくれたのかイメージできると、関心を寄せていただけるかと思い、自己紹介します。長いのですが、お付き合いください。
【注意点】
ライフヒストリーをできるだけリアルに書こうと思っています。そのため、一番最初の「弟の死」という章は重たい内容となっていて、読む時は、心が万全の時に読まれた方が良いです。
また、内容は、私のHPに記載されているものと被っていますので、ご覧になったことがある方は、次の「息子の誕生」から読まれると良いと思います。
弟の死
私は大阪の下町で生まれました。小さな町工場がたくさんあり、家の中にいても、隣の工場の機械が動く音が聞こえてきます。遊びは、磁石に紐をつけて地面を引きずること。砂鉄や金具がたくさんついて、面白いのです。
父は私鉄職員でした。外交的で楽しい人だけど、人と真剣に向き合うのが苦手なタイプ。母は公務員です。真面目すぎて仕事のストレスを発散できず、家に持ち込み、2人は小さなことで衝突を繰り返していました。
兄弟は、1歳下の弟と2歳下の弟の2人の弟がいます。
父と母は、経済的には何も問題なく育ててくれました。愛してくれていたと思いますが、不仲の2人がケンカした罵声や辛辣な言葉のやり取り、またその鬱憤がときに子どもに向かって体罰になり、心が休まることがありませんでした。
子どもにとって、学校や習い事、友人関係などの外の世界は、緊張感のある世界です。そこでうまくやっていくためには、家の中には安心があり、ありのままでいられ、一番小さな社会の単位である家族から、自信がつく関わり方をされることが必要ではないでしょうか。
弟は、2人とも中学から不登校になりました。不登校の原因は様々で一概に言えないと思いますが、我が家の場合は、父と母の不仲が原因で、家庭内にいつも緊張や不安があったことが大きかったと推測しています。
私自身も、何だかいつも元気がなくて、学校に行き、友達と話を合わせることや、自分が苦手としている教科に取り組むことに、とても疲れ、朝起きて「またあれをやるのか」と陰鬱な気持ちになって、時々、学校を休んでいました。
上の弟は、大検をとり、大学進学を機に家を出ましたが、下の弟はずっと家に引きこもっていました。そしていつの間にか、複数の精神科に通って、大量の向精神薬をもらい、お酒と共にそれを飲む、ということを繰り返していました。
気づいたのは、私が30歳くらいの時です。すでに家を出て自活していた私は、気づくのが遅れてしまいました。実家に帰った時に、弟の顔にあざがあって、親に理由を聞いてやっと気づけました。酩酊状態になった弟は、転んで顔にあざを作ったのでした。
家を出て、弟のことは一旦脇に置いていて私は、驚き、全てを諦めていた親を説得して、病院やサポート機関に連絡をとり始めた矢先、彼はお酒を買いに行った途中、意識を失い、地面に頭を打って亡くなりました。
私は弟に、愛憎なかばする気持ちをずっと抱いていました。
幼かった頃、共に遊んだ思い出の中の可愛い弟。。ふっくらして丸い大きな目をした自慢の弟でした。
けれども永遠に扶養しなければならない家族がいることは、10代、20代の私には、未来が暗く感じられることでもありました。「私と結婚してくれる人なんていないかもしれない」。そんなことも感じていました。
それに、(ここに書くことに、読んだ方にどう思われうのか、ためらいがありますが)弟は引きこもりが長くなると、万引きなどの犯罪を犯すようになりました。親や私の気持ちを引きたかったのかもしれません。鬱屈した思いが犯罪に向かったのかもしれません。万引きを止めようとお金を与えると、必要ないものを大量に買うので、お金がすぐに無くなり、自宅は荷物だらけです。
捕まって、留置所に入ると、殊勝な言葉が並んだ反省の手紙が届きます。でも出ると同じことが繰り返されます。「たとえ身内でも縁を切れば良いのに」と思う方もいらっしゃるでしょう。でも実際に、警察や裁判所、公的機関から連絡が入ってくるのは身内です。心理的にも現実的にも「縁を切る」ということはとても難しいのです。
弟が薬物を大量摂取していることを知って止めると、朝方4時頃、私が一人暮らしをしている家に、弟から電話が入ります。「どうしても飲みたい」と訴えてくる話を聞いて慰めます。当時は、電話が鳴る音にビクビクして過ごしていました。
朝まで話を聞くと、心も体も疲れきり、仕事中に救護室で休ませてもらうこともありました。
解決策は何も見つからず…本当に辛かったです。
だから、亡くなった時は、正直に言うと「これで終わった…」とホッとした気持ちがありました。けれども、そう思う自分が「人でなし」のように思われ、恐ろしくなります。自分で自分を責めることが始まりました。
亡くなってからは、よく弟の夢を見ました。夢の中では、一緒にアルバイトをしています。私と一緒なら働けるね、そんな会話をしていました。「良かった…」安心とうれしい気持ちが胸に広がります。でも、目が覚めると待っているのは、弟が亡くなったという現実です。私の顔には、いつも涙が流れていました。
まだ弟が生きている時、悩んでいる私の事情を会社の上司が知り、知り合いのカウンセラーを紹介してくださいました。その上司は、パートナーを突然の病気で亡くした経験がある方で、カウンセリングを自分も受けた経験があり、人に相談することの有用性を知っている方でした。上司から紹介してもらったカウンセラーに3回ほど面談してもらい、話を聞いてもらって楽になる経験をした私は、弟が亡くなった後、改めて自分で選んだカウンセラーに話を聞いてもらいたいと思い、Webで探し面談してもらうことにしました。
最初の面談でカウンセラーに「どうしましたか?」と聞かれて、自分の口から言葉が出るまで、10分以上黙っていたことを覚えています。何をどこから話して良いのかわからない躊躇い、私の話を相手が理解してくれるのかの不安…心に蓋されているようだ、と感じました。
カウンセラーは辛抱強く待ってくれていました。私より、少しだけ年上の女性で、ふんわりと内側に巻いた茶色の髪と穏やかな笑顔が優しそうなこと、同じようにご兄弟のことで悩んだ経験がある、というのをプロフィールで知って選んだ方でした。
意を決して言葉を発すると、一言目から涙があふれてきました。誰かに聞いて欲しかった…私の中の言葉たちが、出る機会を欲しがっていたのを感じました。もう1人で抱えるには重すぎることでした。
6回〜7回は通いました。
最初は幼い頃のことからです。親からの体罰が恐ろしかったこと。傷つく言葉を投げつけられたこと。だからなのか、人に温かい言葉を送ることができず、弟たちにもきつく接してしまっていたこと。弟の顔を見れば「将来どうする?」という、プレッシャーを与える話ばかりして、後悔していること。相談機関に行くのを決断するのが遅すぎたこと。
カウンセラーに、話を聞いてもらうと、不思議に気持ちが楽になります。
辛い気持ちを言葉にし、共感してもらえると心の中の氷が溶けていくように感じました。
そして純粋に共感してもらいながら質問をされると、ちっとも嫌な気持ちにならず、それどころか、新しい気づきが生まれて、出来事が違った風に見え、心が軽くなります。
後悔ばかりしている私に、カウンセラーが問いかけます。
「もし、その時に戻ったら、他に何かできたでしょうか?」
当時の切羽詰まった気持ちを思い出しながら、一生懸命考えました…他にできたこと…けれども何も思いつきません。
静かにカウンセラーが言葉を続けます。「きっと…ベストを尽くしていたんだと思いますよ…」
その瞬間、熱い涙が頬を伝うのを感じると共に、心の中の大きな氷の塊が、「カラン」と澄んだ音を立てて崩れる音が聞こえた気がしました。
「対話でこんな風に楽になるんだ」と感動し、感謝の気持ちが沸くと同時に、心の支援職への憧れも育ったと言えます。
ただ当時は、他者とのコミュニケーションに自信がなく、とても自分にできる職業とは思えませんでした。「私だって一歩間違ったら引きこもりだったかもしれない」と思っていたくらい、自分の意見や気持ちを相手に伝えることに躊躇いがあったり、何か新しい行動をすると他の人からどう思われるのかを気にして、何事にもチャレンジできない自分がいました。
息子の誕生
新卒で勤めた会社で同期だった夫と知り合い、29歳の時に結婚しました。息子が誕生したのは、34歳の時です。最初に就職した金融機関で、1年間の育児休暇を取得しました。
親は子どもに言葉や生活のことなど、独り立ちできるように色々なことを教えていきますが、返って子どもに教えられることも多いのではないでしょうか。
息子が生まれてしばらくの間、昼夜逆転しながら無表情の新生児のお世話をしていると、体力も心も余裕がなくなり、追い詰められていきます。
ところが、2ヶ月経ったある日、息子と目が合うと、「ニコッ」と満面の笑みを浮かべるではありませんか。無表情との落差。息子の、「ママと目が合ってうれしい!」という無垢な気持ちが、自分の中にスッと流れ込み、一瞬にして猛烈な喜びが私の心に湧きます。それは、まるで稲妻に打たれたような感覚でした。子どもがこんな形で自分に「愛」という感情を教えてくれると思っていなくて本当に驚き、今でもその瞬間を覚えています。
赤ちゃんは、無力で全く非生産的な存在です。そして、その無力な息子の存在は、私にとってかけがえがなく感じられました。彼が、ただ笑ってくれると、私の中に温かい喜びが生まれます。
私はそれまで人に喜びを与えるためには「誰かの役に立つことが必要」だと思っていました。「役にたつ=生産的=人の価値」という図式が自分の中にありました。長女という家族で頼りにされる役割を果たしてきたこと、また能力主義、資本主義の社会の中で、培われてきた価値観だと言えます。
でも、この育児の経験から、「役に立たなくても存在するだけで喜んでくれる人がいるのか」と少しつづ思い始めました。
「役に立たなくても存在するだけで人は良いのかもしれない」。この気づきは、「亡くなった引きこもりの弟は、引きこもりを脱出せず、そのまま生きてるだけで良かったのかもしれない」という反省につながりました。「引きこもりはダメ」「人は社会と繋がり、お金を自分で稼がなくてはダメ」。その思い込みが自分や弟を追い込んだのかも知れない。そんな風にも思えてきたのです。
もちろん、引きこもりのままでは、困ったことも沢山起きたと思います。けれども、まずは「引きこもりのままで良い」と一旦、心から思えていたら、私も彼も家族も、もっと楽な気持ちになり、心身が回復し、何か別の選択肢が見えたのかもしれないと感じたのです。既に弟は亡くなっていて、取り返しがつきません。私にとっては、痛みが伴う気づきですが、成長することを良しとしがちな現代で、とても大切な気づきで、ずっと覚えておきたいと思っています。
存在を全肯定された時の安心感や、そこから生まれるパワーを、出産・育児は教えてくれました。
コーチングとの出会い
最初に勤めた金融会社でコールセンターのトレーニングチームのリーダーをしていた私は、会社から研修として「コーチング」を紹介されましたのは、息子を妊娠する直前、33歳の時です。
「『教える』だけではなく『引き出す』もできた方が良いよ」、と言われたのを覚えています。
当時の私は「よし!部下を変えるためのスキルを身につけるぞ」と意気込んで行ったのですが、そこで衝撃の展開が待っていました。
会社から紹介されたのはCTIというアメリカ発の老舗コーチトレーニング機関です。机はなく、25人の参加者が椅子のみを円にして座り、全員が顔を見えるようにして対話していきます。研修といえば椅子と机があり、前に立っている講師に向かって座る形式に慣れていた私は、ドギマギしながら受講していました。
講義が進み、CTIのファシリテーターが「コーチとクライアントの間で大切なことは信頼関係です」と説明しました。「確かに!」と私は心の中で思います。「信頼関係がないと、自分が悩んでいることを相手に話すことさえできないな…」。
ファシリテーターは続けます。「では信頼関係を作るために必要なことは何でしょう?」
少し考えましたが、私には思いつきません。
そうすると、ファシリテーターは、こう言いました。
「相手への好奇心です」。
「えーーーーー!」と私はのけぞりました。だって、その頃の私は、部下に好奇心を持っていなかったからです。私にとって、コミュニケーションとは、双方向のものではなく、プレゼンテーションのように一方通行のもの。例えば一方の人間が、とても面白い人だったり、頭が良いと、相手が好きになってくれる。そんな図式を頭に描いていました。
「好奇心」というキーワードは、全く自分の中になかったので、本当にびっくりしました。けれども2人1組のコーチング練習で、自分がコーチとなりクライアントさん役の人に好奇心を向けると、確かに今までは湧いてこなかった質問がふと出たり、相手の表情の変化に気づく感覚がありました。
当時の私は日常のコミュニケーションに苦手意識があり、会話をどう進めたら沈黙にならないのか、盛り上がるのかさえ迷っていましたから「相手に好奇心を向けることで、少しでも会話が進むならやってみよう!」と決意しました。
私はコミュニケーションが苦手だったので、誰が横に座るのかわからない会社の飲み会は憂鬱でした。大袈裟だと思うかもしれませんが、だいたい1ヶ月くらい前から「嫌だなぁ」と思い始めます。
でもコーチングで学んだ「好奇心を向けて相手の話を聞く」と、相手の話のちょっとしたところが気になって、つい質問したくなります。質問すると、相手も楽しそうに答えてくれます。そうすると、今までより相手のことが知れ、知ると親近感が湧き、会話が終わった後、距離が近くなったような気がして、気持ちよく会話が終了できます。「これは続けてみよう」と思いました。
そもそも私は弟が亡くなった後、自分のプライベートについて質問されることを恐れていました。まだ出来事が整理されていない中で、家族について聞かれた時に、なんと答えて良いのか、まだわからなかったのです。「兄弟は何人?」と聞かれたら「2人」と答えるべきなのか、「3人」と答えるべきなのか…たったそれだけのことですが、心が乱れに乱れてしまうのです。
なので、会話の中で、自分のことを話さないといけない場面を絶妙に避けていました。相手からすると、見えない壁がいつもある、捉えどころがない印象だったのではないでしょうか。
ですが、私の方が好奇心を持って相手と接すると、自分のことを話さなくても相手と仲良くなれる感覚がありました。この認識は、コーチングとして考えると、まだまだ浅い理解なのですが、自分のことを話さなくても会話で気まずい思いをせず、相手との距離が縮まる「好奇心」という武器は、私にとって「革命」のように感じられました。
CTIのコーチトレーニングを通して「変わらないといけないのは、部下ではなくて自分だった」ことに気づいた私は、CTIの次の応用コース「フルフィルメント」に自分のお金を出して参加しました。当時、3日間の講座で15万円だったように覚えています。高額でしたが、こんなに気づきを与えてくれるなら出そう!素直にそう思えました。
フルフィルメントは、自分の価値観や、行動の源になる自分の「響き」を探っていくのが目的です。
今となっては笑い話ですが、飲み会の席で隣になる人との会話が困らないようにしたい、という願いを持っているのに「あなたは社会にどんな影響を与えたいですか?」と聞かれるので、なんと答えて良いかわからず、苦しかったです。まだ何がやりたいのか、わからない私にとっては、ハードルが高い、質問に対し何を答えて良いのかわからない講座でしたが、それでも「わからないものに挑戦した」という感覚があって、今まで「できること」「やれること」だけをやってきた自分が挑戦したことを褒めたいと思いました。
フルフィルメントが終わったのが2008年で、続きのバランスコースに参加まで、出産を挟み、4年かかることになります。たった2つの講座に参加しただけでしたが、それでも随分、会話や面談が楽になりましたし、他者ではなく、自分が変化することで、2人の関係性が変わってくることに気づけたことが大きな収穫でした。でも自分が変化することへの恐れはとても大きく、気が重く、次に向かう準備として、4年の歳月が必要でした。
リストラと転職からわかったこと
出産後は、また会社に管理職として復帰したのですが、リーマンショックを受け、会社は売却されることになりました。36歳の時です。大規模なリストラが実施され、私もその対象になりました。退職勧奨もショックでしたが、さらにショックが大きかったのが、次の就職先が見つからなかったことです。
その頃、子どもがまだ1歳で保育園に預けて働いていました。17時には仕事を終え、迎えに行かないと間に合いません。シフトや残業ができないこと考えると、これまで勤めていたコールセンターの仕事は厳しいですし、キャリアチェンジしようにも、他業種にアピールできる経験や資格がありません(正確には、無いように感じられました)。転職先紹介のプラットフォームから「あなたに紹介できる仕事はない」と登録を断られることさえあり「本当に情けないなぁ」と思いました。
最初に勤めた金融機関で、私は会社の目標にコミットして働いていました。営業をしていた時は融資額や返済率、コールセンターのトレーナーになった時は、オペレーターを離職させず、1人前にする率など。
毎年、求められたゴールが達成できるのか緊張して「生きるか死ぬか」という感覚で働いていました。そんなに一生懸命やってきたのに、転職活動で「これができます」「これをやってきました」と言えない自分がいて愕然としました。
転職活動を通じて2つ、分かったことがありました。
1つは、受け身に仕事をするのではなく、「自分はこれをやりたい」「これができるようになりたい」という主体性が先にないと、仕事を通じて何を身につけたのか、よくわからなくなってしまう、ということ。実際には、習得していた知識やスキルは、たくさんあったと思うのですが、それらがぼんやりとして言語化できませんでした。
2つ目は、今まで目標を達成するまでの、自分の「あり方」や「コミュニケーション」について考えたことがなく、とにかく目標を達成しよう、しかなかったけれど、目標を達成するプロセスでの「あり方」「コミュニケーションスタイル」が大事だ、ということです。
誰だって、目標を達成するまでにイライラしたり、自分自分とわがままな人と仕事するより、例えば周囲と協調し、ネガティブな出来事に勇気や励ましで周りを鼓舞する人と働きたいよね、ということに初めて気づきました。この時点で初めて気づくぐらいなので、今まで、自分の振る舞い・言動に対して全く客観的になれていませんでした。周囲の人に、無自覚にネガティブな影響を与えていたことも多かったと、とても反省しました。
その後、以前の上司が先に転職していた損保で、コールセンターのトレーナーとして声をかけてもらい、パート講師して雇ってもらえることになりました。その会社は18時が終業時間で、17時に終業するにはパート雇用しかない、とのことで、就職氷河期時代にせっかく正社員になれたのに、それを手放すことに残念さを感じつつ、でも転職先が決まったことにホッとしつつ了承しました。
そして、同時に「この転職を良いものにしたい、自分が成長する機会にしたい」と思いました。「自分が何をしたいかわからない、何ができるか言えない、こんな事は終わりにしたい。私は自分に専門性をつけ、自分が何者であるのか明確にわかっていたい」、と。
私は自分にコーチをつけて伴走してもらうことを決意します。自分1人で「主体性を持つ」ことや、より良いコミュニケーションスタイルについて考えるのは難しいと感じていましたし、CTIのコーチトレーニングを受講して自分が変化した経験を思い出し、コーチングに賭けてみよう、と思えたからです。
私は改めて、出産で中断していたCTIの講座に行き始め、講座で知り合ったコーチにお願いし、月に2回、コーチングを受けました。最初はやはり弟のことから話し始めました。まだまだ気持ちの整理が必要でした。でも、弟のことを話し終わると、自然と話題は今の仕事のことや、この後何をしたいかに移っていきました。今から考えると、自己受容から、自己実現に向かうプロセスだったのだなぁと思います。
この会社には7年在籍させてもらい、さまざまなことを経験させてもらいました。幸いにも上司は雇用形態にかかわず、やりたい人を応援してくれる方たちでした。
講義形式だった会社のトレーニングをCTIのような体験型ワークショップに変更したり、オペレーターの管理職は、コーチングを学ぶことを必須にすると提案して受け入れてもらったり、海外の拠点に研修講師として派遣してもらったり。
物事を成し遂げるために、プロセスも大事にするようになりました。自分の振る舞いや言動が相手にどう受け取られるのだろう?と言うことを、意識して行動していきました。恥ずかしいのですが、人と話す時に初めて、相手の話をしっかり聴こうとしたり、気持ちを受け止める言葉を考えて伝えたり、相手の長所や強みを感じたら言葉にすることを大事にしました。愚痴や他者を批判する発言は、それがどういうインパクトを持つのか熟慮し、適切な場面、相手に言うことにしました(以前は毒ガスのように撒き散らしていました)。
対人関係でうまくいかないことがある場合は、コーチングのテーマにして、自分では気づかない視点をコーチからもらうようにし、コミュニケーションスタイルを見直していきました。CTIで教えてもらった「相手とまず信頼関係を作ることが大事」を実践し、少しづつ手応えを感じていきました。
当たり前ですが、全てがスルスルとうまくいった訳ではなく、上司の期待に応えられず、厳しくフィードバックされたり、同僚と意見が対立し、無視されたりと、辛いこともありました。コミュニケーションも「いい人すぎて堅苦しく話しづらい」と言われました。前の自分のままでは良くないし、かといって新しい自分も良くないと言われて、どうして良いかわかりません。コミュニケーションを練習中だったので当然のことなのですが、中庸を取れず、苦労しました。
でも、コーチがいたからこそ、今までのように「言われたこと」だけをやるのではなく、「自分がやってみたいこと」を勇気を出して声に出すことができましたし、自分の振る舞いを見直し、少しづつ修正できる力をつけていけました。
「自分がやってみたいこと」は、最初からあったわけではありません。コーチングを受け始めた時は、それが何かさえわかりませんでした。でも日々の仕事に一生懸命取り組み、CTIの講座で教えてもらったコーチングに一生懸命取り組み…どちらもすぐにはうまくいかないことばかりです。むしろうまくいかないことの方が多くて、とても苦しいのですが、そんなに苦しいのになぜ私は取り組むのか…?
これは自然に生まれてきた「問い」でした。
私の心はいつも揺れていました。
こんなに苦しいのに取り組むなんて、ひょっとして私は、コーチングが好きなのではないか…私なんかがコーチになれるなんて思えないけど、コーチングが好きなのかな…
コーチングで学んだことを活かして会社でファシリして、みんなに喜んでもらうと、自分もとてもうれしいな…でも、いつも喜んでもらえる訳じゃなくて、時々、辛辣なフィードバックをもらって傷つくこともあるし、私、本当にこの講師という仕事をやりたいのかな?もっと気楽な仕事をしたい気もする…
こんな感じで心は行ったり来たりし、答えはすぐに出ません。コーチングやファシリは仕事に必要だから学び始めたけど、そこに「好き」「やりたい」はあるのだろうか?
何年も何年もかけて、「私はコーチングをしたり講座を作ったりが好きなんだ…でも、ただそれがうまくいかなくて苦しいんだ…やりたくない訳ではない」そんな結論を出していきました。
コーチングを受けると、「すぐに自分のやりたいことがわかるのでは」と期待を持つ人がいると思います。そして、とてもやる気に満ちた、明るい前向きな気持ちになれるのではないかと。
もちろん、そういう人もいるでしょう。
けれども、自分の経験から言うと、何がやりたいのか納得するまでに、とても長い時間がかかりましたし、やりたいことがわかっても「それが今の自分には到底できないレベルのことだ」と感じられた時、明るい前向きな気持ちどころか、暗くなんとも言えないどんよりした気持ちで過ごしていました。今だから言えますが、どんよりした気持ちは、とても辛いですが、でも悪いことばかりではありません。その気持ちは夢を諦められないというサインでもあるからです。なので、もしやりたいようなことがあり、そのことを考えると暗い気持ちになる人には、ぜひその暗く重い気持ちに耐え、やりたい方に向かうことをお勧めしたいと思います。そして1人で耐えられないときは、ぜひコーチや、コンパッショントレーナーといった対人支援者を頼って欲しいです。(コンパッションについては後述します)
コーチングは、「自分はこれしかできないだろう」という思い込みを外し、自らの可能性を広げ、他にも選択肢があることを気づかせてくれる素晴らしいメソッドです。コーチという応援者が勇気をくれ、定期的に会うシステムで自分の成長を確認できます。コーチングに出会えて本当に良かったと思い、感謝しています。
乳がんの闘病から、プロコーチの道になることを決意
転職先で働いていた39歳の時です。風邪を引いて咳き込んだ私は、自分で自分の胸をさすりました。その時、手の平に小さな固いものが当たるのを感じます。「あれ、変だなこんなところに….」そう思って鏡を見ても、表からは何もわかりません。硬い部分は左側だったので、急いで右を触ると、右には何もありません。
「まさか…」と、頭から血の気が引く思いがしたのを覚えています。
急いで近くの二子玉川にあるブレストクリニックに予約を入れ、一週間後の受診になりました。忘れもしない、2013年の12月25日。「どうかガンではありませんように」と祈りながら病院に行きました。
先生は男性でした。気さくで明るい雰囲気です。緊張していましたが、先生の雰囲気に少し気持ちが和らぎました。
検査では、エコーで微妙に色々な角度をつけて、乳房全体を見ていきます。
エコーを当てている先生は、軽い調子で私に話しかけました。「ここに血液が集まっているのがわかるでしょう?」と。やはり硬いものが当たるところでプローブが止まります。画像を見ると血液かどうかはわかりませんが、何かが流れ集まっているのが見えます。
先生はそのまま続けます。「がん細胞はね、血液を集めて大きくなるんだ。これから細胞を取って調べるけど、多分がんだろうねぇ」
頭が真っ白になりつつ「こんなに軽い調子でガンの宣告ってされるんだ」と、驚きました。もっと深刻な話し方で、場を改めて告げられると思っていました。
あれよあれよと、患部に麻酔を打ち、ピストル形の装置で針を差し、細胞を取ります。一週間後に正式な結果を聞くことになりました。
帰り道の途中で、夫に電話をしました。夕方で、二子玉川の街ににクリスマスイルミネーションが輝いています。呼び出し音が鳴って夫が出て「どうだった?」と聞いてきました。
「・・・・」
何か言葉を口にすると、嗚咽に変わってしまう気がして、私は何も答えられませんでした。
それで察したのでしょう。夫から慌てた声で「もう早く帰っておいで!」と言われて、私は無言のまま電話を切りました。
今から思うと、私のガンは1センチ程度と小さく、初期であることが見越されていたのだと思います。現代の医療で初期の乳がんは治る病気。先生も深刻ならなくて良いだろう、と思っていたのではないでしょうか。
けれども私にとっては晴天の霹靂でした。私の祖母は両方とも、大きな病気なく80歳まで生きたので、自分もそうなると、勝手に思い込んでいました。けれどもそうではなくて、死は、隣にいる。私が気づかないうちに、そっといたんだ…ゾッとする感覚でした。
その日から狂ったようにネットで情報を集め出しました。まだ何もわからないのに、色々な情報を見て一喜一憂し、疲れる毎日でした。仕事でPCを触っていても、家でお皿を洗っていても、勝手に涙が流れ出します。それくらい死を身近に感じ、怖かったです。子どもが大きくなる姿を見られないのが、本当に残念に感じられました。
この後、実際に乳がんであることを宣告され、さらに腫瘍が1つではなく2つかもしれないということがわかり、検査に長い時間がかかりました。そのため乳房のどこまでを切るのか、なかなか決まらず、実際の手術は2014年の4月。告知から4ヶ月経過していました。(ちなみに腫瘍は1つでした)
二子玉川のクリニックから紹介された大学病院の先生とは相性が悪く、転院して、赤羽橋にある東京済生会中央病院で手術することになりました。主治医は、当時は珍しかった、乳がんを内視鏡で切除する先生で、「もう大丈夫」という言葉を口癖のように伝えてくれ、その包容力、熱意に、全幅の信頼をおいて手術に挑めました。
この頃は、CTIの応用コースをちょうど終わって1年経った頃でした。出産前の2008年に基礎コースを受講し、出産があって受講を休み、リストラと転職を経て、また受講を再開し…そこからも、講座の1つ1つを休み休み受けていたので、足掛け6年もかけての終了でした。
同じコースを1年弱で受講する人も多いので、私はかなり時間をかけた方です。時間がかかった理由は、「変化することが、あまりに怖すぎて」。講座の内容1つ1つが濃くて、ダイナミックな変化を感じる分、いつも受講に心の準備が必要でした。
自分自身の変化はとても感じていたものの「コーチングが十分できるようになったか?」と聞かれてると、答えは「NO」です。「人の話を聴く」ことは上手になった気がしますが、そこから相手を行動変容まで導けるかというと、さっぱり自信がありません。
コーチングの力に魅了されていた私は、心の奥底で「プロになるための上級コースに行ってみたいなぁ」と密かに思っていましたが、CTIの講座で出会うプロコーチの、エネルギッシュで輝いている姿をみると、「私なんて、到底無理」という想いが湧いてきます。
今から考えると、「プロコーチになりたい」という想いは、私が人生で初めて感じた本気の「願い」でした。心の底から望む強い想いだったのに、同じくらいの強さで「無理だ」とも思ってしまいます。光が強い分、闇が深くなるかのようです。そのため、ガンになる直前は、葛藤で体調がすぐれない時もあるほどでした。育児をしていても、家事をしていても、「私はコーチになれるだろうか?」と考えて、落ち込んだ気持ちで過ごしていました。
乳がんは、その葛藤に結論を出してくれました。
赤羽橋の済生会中央病院は、東京タワーに程近く、廊下の窓から、大きく東京タワーを見ることができます。
手術の前日の夜、東京タワーはオバマ大統領の来日を記念し、アメリカの国旗の色である赤・青・白の3色に輝いていました。その明かりは、初の黒人大統領で、慈愛あるイメージのオバマ大統領と重なり、とても温かく私を照らしてくれているように思いました。
東京タワーの明かりを見ながら…「手術が終わって、もし…もし、どこにもガンの転移がないことがわかったら、私、思いっきりチャレンジしてみたい。生きていることを満喫したい。だから、やっぱりCTIの上級コースに行ってみよう….」
自然と内側から想いが湧いてきました。不思議と心と体が落ち着きます。
今までの苦しかった葛藤が、急にキッパリと終わり、代わりに静かな決意がそこにありました。そして、それを東京タワーが励ましてくれているように感じたのでした。
2014年の4月に手術を受けた私は、CTIの上級コースに11月から参加し、2015年の7月にCPCCというプロ資格に合格しました。上級コース中、なかなかコーチングが上手くならず、苦闘の日々でしたが、頑張り抜いて資格を得たことは、自分に自信が持てるキッカケになりました。
不登校とまではいかないまでも、エネルギー不足で過ごした青春時代。深いコミュニケーションを拒んだ社会人時代。がっぷりと真正面から「何かに一生懸命になった」という経験がない人生でした。私にも熱く、一生懸命になれるものがあった、そして、自分では到底無理だと思っていた資格を手に入れることができた、という経験は、「臆病で挑戦しない」というセルフイメージを「不器用だが粘り強い」というセルフイメージに変えました。
乳がんの闘病は、辛く苦しいものであったと同時に、私に「お前はどう生きたいのか?」という待ったなしの問いを与えてくれる経験でした。
この経験が無ければ、私はもっと人生の回り道をしていたでしょう。ですので、今は、この経験にとても感謝しています。
副業コーチから、専業コーチに
プロコーチの資格を得た私は、翌年にHPを開設し、本格的にコーチを始めました。コールセンター講師のパートは週4日にしてもらい、残り3日をコーチングやイベント企画・広報を考える時間に当てました。
イベント企画とは、コーチングの体験会や、成人発達理論というコーチングの背景理論についての講座、テーマを決めて深く話し合う対話会などです。
上級コース時代のクライアントさんは、コーチングの値段をプロとしての値段に変更しても数人残ってくださりました。
HPからコーチングを申し込みされる人は、年に3〜4人。まだまだコーチングが知られていない時代でした。クライアントさんは3ヶ月〜1年くらいで卒業していかれますので、広い世界に私というコーチがいることをどうにかして、知ってもらう必要があります。そこで、イベントの主催を積極的にやっていたのです。大体、月に10時間程度、コーチングをする日々でした。
最初はパート雇用に、複雑な想いもあったのですが、自分がコーチを副業でするには好都合な選択だったことに気づきました。まだ副業を政府が後押ししていない時代、もし正社員で就職していたら、資格を取ってもプロコーチとして活動するのは、会社の承認が必要で、もっと時間がかかっていたと思います。
最初は会社員として強みを作りたくて始めたコーチング学習ですから、学んだことを研修や面談で活かせることが楽しく、副業でも良い、と思えていました。でもコーチとしての経験を重ねていくと、「このクライアントさんと味わう素晴らしい時間をもっともっと味わってみたい」と欲が出てきました。徐々に「プロコーチとして独立したい。全ての時間をコーチングや企画・広報に費やしてみたい。そうしたらどんな世界になるんだろう?」と思い始めました。そうです、また2つの想いの間で苦しむ葛藤が始まったのです。気がつくと、プロコーチになって既に4年の歳月が過ぎていました。
この会社に転職した理由は、そもそも前職のリストラでしたし、パートタイム社員としての雇用だったので、会社員としての自分を「やりきっていない」という感覚もありました。葛藤する中で、会社員としての自分を改めてやり切るために、入社して6年目に正社員として雇用を変更してもらい、週5フルタイムで、新たな気持ちで働き始めました。
そんな私は、入社7年、つまり翌年に退職することになります。せっかく正社員になったのに、なぜ辞めたのか。自分のビジョンを実現するため…使命を全うするため…いいえ、そんなカッコ良いものではありません。とても恥ずかしいのですが、同僚と大喧嘩をして、辞めることにしました。
私と同僚は、仕事上のパートナー関係で、2人で仕事を進める必要性がありました。ただ、タイプが違っていたので、意見を合わせるのがいつも難しかったです。お互いに個性がありますので、意見が合わないのは仕方ありません。私が辛かったのは、相手が不機嫌さを態度や無視で示したり、意地悪とも言えることをしてくることでした。彼女が(女性でした)の機嫌が悪くなると、隣の席なのに1週間ほど無視されることがあり、そんな時は、会社に行くのが憂鬱でしたし、そうならないよう、彼女に気を遣う必要がありました。
それは2018年の年末、年の瀬も押し迫った頃でした。
コールセンターの講師として、担当部署が「確認してほしい」と依頼してきたトークスクリプトをチェックして、念の為、パートナーである同僚にも確認してもらい、OKと判断して、依頼部署にその旨メール送信しました。
すると、隣の席にいた、その同僚が「やっぱり、このトークおかしいよね。すぐに訂正してよ」と言ってきました。困惑と怒りを感じながら「あなたにも確認してもらってOKって言ったじゃない?どうして今なの?」と聞くと、こんな言葉が返ってきました。
「あなたが先に、私に嫌なことをしたのよ」
直前に私は地方出張に行ったのですが、その時、ある社員の方と一緒でした。その社員の方は、私のパートナーである同僚とは、とても仲が悪かったのですが、出張先でお話してみると、私との相性は悪くなく、仲良くなって帰ってきていました。その様子を見て、パートナーである同僚は、それが自分に対する嫌がらせ、と受け取っていたのです。
私は心の底から怒りと虚しさが湧いてくるのを感じました。私が誰と仲良くなろうと、彼女に何か言われる筋合いはないと思ったからです。私の自由が侵されていくような感じがしました。
そのまま年末の休暇に入りました。本来は、楽しいはずの休みです。でも気分は最悪でした。クリスマスに乳がんの告知をされたのが1番で、2番目に最悪な年末だと感じました。あれ以来、私は彼女と口をきいいてません。自分から口をきかないなんて、この7年間で初めてです。それぐらい、私は怒っていました。
「どうしてこんなことになったのだろう?」と自問しました。
彼女が悪いのだろうか…私はもちろん彼女に怒っている…けれども、何か引っかかる…なんだろう?さらに内側に問うてみます。
うまくいかない同僚との違和感は、7年間、ずっと感じてきたことでした。2人の間には、どう努力しても超えられない壁がある、と感じていました。また、正社員になってみて、研修以外の領域にも年間達成目標を設定されると、どうにもやる気が出ない自分にも気づいていました。副業であるコーチングにとてつもなく惹かれていることも….
出てきた答えは・・・・「私が悪い」という言葉でした。
その時、雷に打たれたような衝撃を全身で感じました。
今回のトラブルの原因を考えると、一見、同僚が悪いように思えます。けれども、実はもういるべきではない場所に私がしがみついていたからではないだろうか?私が悪いんじゃない?という気づきが起きたのです。
そして、そのしがみつきは、なぜ起きたのだろうかと考えました。
プロコーチになってから4年、色々悩みつつ、どうしても会社を辞めることに一歩踏み出せませんでした。自分でもうまくその気持ちを掴めていなかったのですが、自分の奥に耳を澄ますと、そこには「お前はこの会社でしか生きられない、辞めても専業コーチなんて無理だ!」と厳しく声をかけている自分がいるではありませんか。
自分の力を取るに足りないものとして考えている自分がいて、いつもネガティブな言葉をかけ、行動を止めていたのですが、あまりにも自然にいたので、その時まで、その存在を理解できていませんでした。
こういうことになっていたんだ!と初めて気づき「これはもう、退職しなければならない」と思いました。「自分を弱く見積り、バカにした言葉をかけ続けること、そして、この会社に居続けることは、私自身への虐待になる」とも思いました。
私は年明け、出社したその足で、上司にアポイントメントを入れ、退職を申し出ました。1年前、「正社員になれますか?」と聞くと、喜んでくれ、翌日には正社員になる了解を上にとってくださった気持ちを思うと、申し訳なさがありましたが、でも心は決まっていました。
今、冷静になって考えてみると、きっと同僚も不安だったのだと思います。私と大嫌いな社員が仲良くなって、孤立や孤独を感じたかもしれません。私は、事件が起きる前に、彼女にもっと別のコミュニケーションを取ることもできたはずです。私の意識が足りないところがありました。
退職は2ヶ月後と決まり、決まった途端、とても気持ちが楽になったのを覚えています。
全然カッコよくない退職理由でしたが、私の心の中にあった「諦め」や「ネガティブな言葉がけ」を浮き上がらせてくれ、結果的に前に進む決意になった出来事ですので、乳がんと同じく、この出来事でにも、今ではとても感謝しています。
「仕事を創っていく」ステージへ
専業コーチとして独立した私は、仕事をゼロから創っていく必要がありました。
資格取得後、専業コーチになることを決意するのに4年もかかりましたが、時間がかかった分、良いこともありました。
コーチングスクールで資格を取得した時、コーチングの提供時間は100時間ほどでした。この数字は、もちろんすごいことなのですが、プロとして安定したレベルを常に提供できるかというとそうではありません。
プロになったばかりの頃は、「今日のセッション、いま1つだったな。自分も不甲斐ないし、クライアントさんに喜んでもらえなかったな」ということも、まだまだあります。しかし、300時間を過ぎる頃に「色々なタイプのクライアントさんに合わせることができるようになってきたな」と思えるようになっており、独立した時の400時間では、ご縁があって法人からコーチングの依頼を受けた時も、普段の自分のコーチングで大丈夫なんだな、と思うことができました。
どんな風に仕事を得ていったか、ご興味をお持ちの方も多いと思うので、簡単に触れると、私はTwitter(現X)のご縁が大きかったです。
私はTwitterをクライアントさんから勧められて、独立の前年から始めていました。
Twitterといえば、「炎上」が有名で、とても怖かったのですが、もっとイベントに人が来てもらうにはどうしたら良いか、とコーチングのクライアントさんに相談し、「りょうこさんは文章が得意だからSNSが向いてる!」と言ってもらいました。「怖いけど、信頼している人から勧められたからやってみよう」と始めてみたのです。
最初はビクビクしながらでしたが、やるうちに、全く知らない人から反応が来るのが、楽しくて続けてきた感じです。損得ではなく「思いの外、楽しいから続けてみよう!」と思ってやっていました。
Twitterのアカウントは、実名・顔写真を載せました。名前も顔も載せない時代だったので、それだけで信頼感があったのだと思います。クライアントさん募集を投稿すると反応がありました。
また、コーチングプラットフォームのmentoが創業した時、Twitterでいち早く情報をキャッチして登録コーチになれましたし、THE COACH創業者のこばかなさんが、まだコーチングを練習されている頃、練習相手募集に応募して、知り合いになり、そこからTHE COACH MEET(こちらもプラットフォーム)に登録するご縁にも繋がりました。SNSの力は、本当にすごいです。
プラットフォームから、繋いでもらったクライアントさんも多いですし、今もお世話になっています。
この記事を読んでいる方は、コーチの方が比較的多いと思います。ここまで読んで「今は時代も違う。Xにたくさんコーチがいて、プラットフォームは募集を締め切っているところも多い。私にそんなラッキーな事は起こらないだろう」とガッカリされた方もいるのではないでしょうか。私も自分でラッキーだったなと思います。
しかし、こういった幸運は、私だけに起きたのではなく、同じように自営・フリーランスとして活動している友人や知り合いの話を聞くと、同じような感じです。皆それぞれ、偶然の出会いが仕事につながり、オリジナルのストーリーで真似できません。
成功している人を見ると幸運までスルスルと辿り着いたと感じますが、よく聞くと皆、葛藤の連続です(ちなみに、私が成功していると言いたいわけではありません)。
私は、クライアント募集して、誰からも反応がなかったらどうしよう…mentoに応募して試験に不合格だったらどうしよう(mentoなどのプラットフォームには、登録のために実技試験があることが多いです)…こばかなさんという有名で若い方と話しても、全然合わないかも…そんな不安がありました。
その度に、「私に失うものなんてない。自分がやれることを、やれるだけやってみよう」と思い直し、トライしていきました。たまたま上手くいったことを書いているだけで、失敗したこともたくさんあります。
イベントに人が集まらなかったり、一緒に仕事をしようと組んだ人と人間関係のトラブルに発展したり、登録したプラットフォームが解散、提供したコーチングに批判的なフィードバックをいただく、などなど…その度に悩み苦しみ、落ち込みながら前に進んできました。
「いろいろトライしたから、上手くいったものだけが残った」と思います。
未知のことにトライしているので、上手くいかないことがあっても当然です。大事なのは、「悪い想像をして絶望を先取りしないこと」であり、それによって行動を止めないようにすること。つまり「自分が好きなことをやめないこと」だと考えています。
この記事を読んでいる方の中にも、未知のことにトライしている方が、たくさんいると思います。心からのエールを送りたいです(そして、私も絶賛未知のことにトライ中なので、応援してください)。
コンパッションとの出会い
私はコーチングの背景理論や周辺領域を学ぶのが大好きです。気づき、成長を与えてくれる、様々な素晴らしい学びと出会ってきました。その1つが「コンパッション」です。
(コンパッションに繋いでくれたのは、先に学んでいた「フォーカシング」と、その先生なのですが、長くなりますので、また別の記事で投稿したいと思います)
コンパッションとは日本語に訳すと「慈悲」「思いやり」と訳され、その語源はラテン語で「苦しみと共にある」で、悩みや苦しみに対して寄り添う姿勢や心を表します。
「思いやり」という言葉を聞くと、他の人に親切にしたり、優しくすることが頭に浮かぶと思いますが、私が関心を寄せていたのは「どうしたら、人は自分に優しくなれるのか」です。
なぜならば、その反対の自分に批判的な人、厳しい人は、コーチングのセッションが止まることを経験的に知っており、自分に優しくなれないことは、コーチングがうまくワークしない原因の1つだと考えていたからです。
コーチングは、クライアントが感じている課題について(もしくは課題を抱えている自分について)コーチからの質問を通じて様々な角度から考え、思考を拡大させて、気づきを得る手法です。クライアントが無意識に持っている、自己制限的な既成の概念を超える事が、気づきを得るために大事です。
自分のことを「どうせ私なんて」「自分はダメだ」と批判的に考えてしまうと、既成の概念を超えている自分が想像できず、自由で新しいアイデアは何も出てきません。
「どうすれば人は自己批判しなくなるのか?」。その答えを知りたくて、門を叩いたのが、東京成徳大学で准教授をしている石村郁夫先生の「プラスワンラボ」です。こちらで8週連続、1回2時間で行われている「コンパッションネイト・マインド・トレーニング」に参加しました。2021年のことでした。
石村先生は、まだ若く、イギリスでコンパッションを学んで来られた方で、とても柔和な雰囲気の先生です。講座は、「講義」「イメージトレーニング」「受講生同士の対話」で進んでいきます。
私にとって、新鮮で刺激的な学びがたくさんありました。
講義の中で、私が驚いたのは、「コンパッションには決意・強さ・勇気がいる」と言う言葉でした。例えば自分に思いやりを送るというと、前から欲しかったものを買うとか、温泉旅行やマッサージをプレゼントする、などが思いついていました。…なぜ決意・強さ・勇気が必要なのか?と戸惑いました。
それは、こういう理由でした。
"自分に有形無形の物やサービスを購入して気持ちよくしてあげることは、確かにコンパッションの1つかもしれない。けれどもコンパッションとは、それだけではなく、自分の本当の気持ちに寄り添うこと、背中を押してあげることも含む。願っているのにアクションできていないことを優しく一歩踏み出すように自分に促すには、とても勇気が必要だ"
そう言われると納得できる自分がいました。
自分の本当の気持ちを知り、その後押しをしてあげることは、未知への挑戦です。人が未知のことに踏み出す時、必ず「怖れ」が生まれます。「うまくいかないかもしれない、失敗するかもしれない。」そんな気持ちに振り回されます。
その時必要なのは、決意であり、勇気であり、強さ…コンパッションである。自分の体験や、コーチングを通して感じていたことが、明確に言語化できたように思いました。
イメージワークも、私にはとても効果的でした。
コンパッションをもらったりあげたりした記憶を思い出し再体験したり、コンパッションに満ちた自分をイメージして、からだの感覚からコンパッションを理解します。
特に印象深かったのは「コンパッションをもらった記憶」を思い出すイメージトレーニングでした。過去の体験から思い出すのですが、私にはいつも思い浮かぶ場面がありました。
1つは大学時代の記憶です。
神戸の大学で天文部に入っていた私は、大学の屋上で寝袋にくるまって天体観測をしています。天体観測は、ペアでしていて、その時は同期の女の子がいました。年頃の女子が2人いるので、ぺちゃくちゃと話は尽きません。話は日常や恋のこと以外にも及び、私は自然に引きこもりの弟のことを話していました。ドキドキしながら話しましたが、意外だったのは、相手も兄弟のことで悩んでいることを打ち明けてくれたことです。
将来、親から兄弟の面倒を見るようにと言われており、とても気が重い、と話してくれました。
明るく朗らかで、誰からも好感をもらえる同期に、そんな悩みがあったことを知って驚きましたが、似たような気持ちを抱いている人が身近にいることがわかって「悩んでいるのは私だけじゃない」と、肩の荷が軽くなったような気持ちになり、とても安心しました。この同期とは生涯の親友となっていくのですが、この屋上で感じた、つながる感覚や安心感が、ずっと2人の間にあるのだと、イメージワークで納得しました。
もう1つは最初の会社で働いていた時の記憶です。
弟のことで悩んでいた時、救護室で休むことを勧めてくれたり、カウンセラーを紹介してくれた上司の顔が浮かびました。
あの時の、温かい目線や表情が思い出されます。また、私は自分の悩みにいっぱい、いっぱいだったけど、上司にも大切なご家族を突然死で亡くされた経験があり、その時の気持ちはどんなだったろう…私は大切なことに思いを馳せられていなかったな…そんなことも思い浮かびました。
改めて、過去の体験に感謝の気持ちが出て、心が温かくなり、涙が流れる時間でした。今まで自分が無意識にもらってきた応援や励まし、安心感が、陽の光の下に出され、自分を支えてくれていたことがわかりました。
2つ目の記憶の上司は、もう二度と会わない人かもしれません。だからコンパッションを返すということはできない可能性があります。その分、社会にコンパッションを返し、循環させようと思いました。
講座を受講する中で、私に起きた変化は3つです。
①自分の中に、コンパッションに満ちた、自分を応援する自分が生まれた
とても粘り強く、自分のことを諦めない自分が生まれました。温かい勇気づけや励ましを送ってくれます。人の成長は、少しづつしか起きないことを知っているので、待ってくれる力もあります。24時間、いつも一緒にいてくれ、私が本当に欲しい言葉をくれる存在です。
②周囲の人をもっと大切にしていこうと思うようになった
何回も同じ人がイメージワークに現れて、自分にとって大切な人なのだと理解できました。また、今まで感じられていなかったけど、他者からのサポートが自分を生かしてきてくれたのだと思い、周囲の人を大切にしようと思うようになりました。
③身の回りにコンパッションがたくさんあることに気づけるようになった
家族や友人と、思いやりの交換をたくさんしていることに気づけるようになりました。近しい人だけではなく、道ゆく人や電車の中のちょっとしたやり取りにも、思いやりが含まれていることに気づき、日常の幸せが大きく感じられるようになりました。
④ネガティブなフィードバックを受け取れるようになった
今までは、ネガティブなフィードバックをもらう時、心の中で抵抗が起きて、全然受け取れていませんでした。顔は平静でも、内心は相手に反発する気持ちがありました。
でもフィードバックをされる時にコンパッションを意識すると、相手が本当に伝えたい気持ち(私と関係を続けたいからこそ、勇気を持って話し合ってくれた気持ち)が聞き取れるようになりました。また、間違いを犯した自分を責める気持ちを抑え、その時は最善のことをやったと自分を認めることで、拗ねたり落ち込んだりせず、素直な姿勢でいられるようになりました。話し合いが終わると、相手との仲が深っていることもあります。(ただ、とても難しいので、できたりできなかったり。今も練習中です)
⑤コンパッションを社会に広げていきたいと思うようになった
2021年にコンパッションを学び、実践し続け、どんどん心が柔軟になっていくのを感じています。生きている上で、悩みや苦しみがない人生はありません。けれども、自分にコンパッションを向けることで、自分を優しくサポートしながら生きていく術を身につけられたように思います。
かつて私は、毎日とても小さなことに悩んでいました。
1ヶ月後の飲み会、今日のミス、私の発言が誰かを傷つけてしまったのではないか…なので、学校や会社からの帰り道、夕陽が照らすオレンジ色の道を、暗い気持ちで下を向き、トボトボ歩いて家に帰っていたのを思い出します。
コンパッションを知った今は、その日、嫌なことがあっても、自分で自分を慰め、励ますことができるので、ずいぶん早く、落ち着いた気持ちに戻ることができるようになりました。
浮き沈みはありますが、夕陽の美しさを心で感じる日常です。家の窓から西を向くと、バラ色と橙色が混じった空に、雲が浮かび、影になった部分は灰色で、コントラストがとても美しいです。「昔は、空がこんなに綺麗だなんて知らなかったな。」そんな気持ちで空を眺めていられることに感動します。
この投稿の最初に、簡単なプロフィールを載せましたが、私は今年で50歳です。年齢を明かすのか迷いましたが、乳がんで闘病してから、人生の終わりを意識することは自分にとって、とても大事なことなので、あえて記載しています。
ここまでの人生に後悔はないですが、唯一ある「残念なこと」」が、「もっと早くにコンパッションと出会いたかった」という思いです。
弟のことで悩んでいる時、その死に悔やんで自分を責めている時、リストラされた時、コーチングがうまくいかない時…人生のあらゆる場面でコンパッションがあれば、もっと自分を励ましながら、自分という存在を頼もしくかんじ、孤独を感じずに歩めたのではないかという思いがあります。
それに、コンパッションで自分に対するネガティブなフィードバックを受け取れるようになってから、コンパッションを知った人が増えると、世の中の対立を乗り越えていけるのではないか?とも、思うようになりました。
ガンジーやマンデラ大統領のように対立を乗り越える力を持ったリーダーから慈悲の資質が感じられる理由が、わかった気持ちがします。
世の中に様々な立場の異なった意見があるのは、当たり前のことです。大事なのは、ただ「違うね」と認めるだけではなく、違いがあったとしても、相手の困っている気持ちに寄り添い、自分ができることで、相手の痛みを取り除こうとする姿勢であり、もしその時、自分の心にそれを妨害したり邪魔する気持ちが起きるのであれば、そこにもコンパッションを向けることではないでしょうか。
コンパッションへのお誘い
「コンパッションを社会に広めたい」と言う気持ちが高まり、仲間と共に、2024年6月に「合同会社コンパッション・リーダーズ」を設立して、コンパッションの知恵を伝えるべく、講座をご提供しています。
「コンパッション・マインド・トレーニング」という12回連続講座です。
勇気を育み、しなやかな強さを持つ自分になっていきます。
あんなに自信がなく、何事にも挑戦できなかった私が、会社を作るなんて、本当に驚きです。コンパッションだけではなく、コーチング、フォーカシング、成人発達理論など、自分が打ち込んできた学び全てに感謝です。
そして、これを読んでくださった皆様にも、ぜひコンパッションを知っていただきたいです。講座スタートは9月なのですが、40分の無料相談を随時開催していますので、ご自分の課題や悩みにコンパッションが良さそうか、ぜひご相談ください。
こちらから、お申し込みいただけます → 🍎
💫9月開始の講座についてこちらの記事からご覧ください💫