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「私の本の読み方」「私にとって本を読むとはどういうことか」を考えてみる。読書会「ブックダイビング」への参加に寄せて。



はじめに 

以前「私は本が好きです。本を読むことが好きです。子供のころからずっと、今も。」ということを題材にしたnoteを投稿しました。私のごく一部分の自己紹介も兼ねて。

  
今日は「私の本の読み方」「私にとって本を読むとはどういうことか」を書き残してみたいと思います。思考が纏まっていないことでもあるので、考えながら書いて、書きながら考えていきたい。

この2つの問いは、「ブックダイビング ~一緒にもぐろう、本の海に~」というTWILIGHTさん主催の読書会に参加するなかで浮かんできたものです。


 

今回の読書会は、「ブックダイビング」「一緒にもぐろう」という表現の通り、本を読むことを「もぐる」になぞらえています。イベントタイトルにある印象的な絵は「本を読みながら沈んでいく絵」というテーマでAIが描いたものだそうです。素敵な絵ですよね。AIすごいな。

私にとって、本を読むことを「もぐる」になぞらえると、どういうイメージが浮かぶだろうと考えたときに、まずは「私の本の読み方」と「私にとって本を読むとはどういうことか」を紐解きたいと思いました。

私の本の読み方

普段どうやって本を読みますか?と聞かれたら答えるのは、私にとって「本を読む場所、本を読むシーン」が決まっているということです。

それは「本を読むためだけの場所」があるとか「本を読むためだけの時間」があるのではなく、つまり、「ながら読み」です。それぞれ全く別の目的がある「場所」と「シーン」において「本を読む」ことをします。

具体例を挙げてみるとこんな感じです。

お風呂の中

私は毎日必ず湯舟にお湯を張って浸かります。そこに欠かせないのが、本です。お風呂の中で読書するのは、私にとって幸せな時間です。なぜかとても集中できます。恐らく一番読書が捗る場所です。のぼせない程度のお湯加減にしておけば、本を読みながら、ずーっと浸かっていられます。そして、指と本がふやけたところであがります。

それまで読んでいた本が読み終わってしまって、お風呂に持ち込む本がすぐに用意できないと、本棚の前でどの本がいいか逡巡するくらい、お風呂に本は欠かせません。

 

電車の中

通勤電車、通学電車の中での読書は、よくあることですよね。今となっては圧倒的にスマホを見ている人が大多数ですが、私が電車の中で本を読み始めた高校生の頃は、新聞か本を片手にしている人の方が多かったです。もう30年ほど前のことになります。

高校への通学のための乗車時間は10分程度でしたが、それでも本を開いて没頭しました。友達と一緒とかでない限り、必ず本を開いていたと思います。大学への通学になると、3回の乗り換えを伴う2時間の旅でしたので、むしろ本が無いとやっていけないと思われるほどでした。本を開いているか、運よく座れて眠ってしまうか、のどちらかでした。このころになると、自分の好きな本以外に、授業で使う教科書も電車の中で読むようになりました。家で読むよりよほど捗ったからです。

会社員になってからも、そして今も、電車の中で本を読む習慣は変わりません。自分で残念に思いつつも、スマホを片手に乗ることも増えてしまいましたが、お風呂に入るのに本が欠かせないように、電車に乗る予定があったら、必ずカバンの中に本を入れておきます。

 

ベッドの中

寝る前の読書も、よくある習慣ですね。子供の頃からずっと続いています。どんなに疲れていても、とりあえず本を開いて、数行でも読むことをしないと、眠りに就けません。まるで儀式みたいだなと思います。お風呂の中に持ち込む本が思い当たらないと困るように、寝る前に読む本が無いと困ります。眠れません。

最近はあまりないのですが、読書に没頭してしまって眠れないこともたまにあります。面白いことに「怖い本」を読むとそうなります。ホラーやサスペンスの小説です。寝る前に選ぶ本じゃない気がするけど、寝る前に読むのが好きなんです。眠れなくなるのが分かっているのに、どうしても寝る前に繰り返し読んでしまうのは、小野不由美さんの『屍鬼』です。何が困るって、面白いうえに、分厚い文庫本で5冊もある長さなんです。徹夜しても読み切れない。疲れて諦めて寝てしまいます。

 

食事中

ご飯を食べながら何かをするのって、お行儀が悪いと思うので、あまり大っぴらに言えませんが、食事中にもよく本を読みます。ひとりのときは特にそうです。自宅でも、外食でも。食事中の読書は、あまり捗らないし、食べ辛いし、読み辛いです。でも、ついつい本を開いてしまいます。

出張や旅行先でひとりで外食をするときには、むしろ本が必要だと感じていました。もう出張をすることはなくなったけど、これから、どこか慣れない土地のお店に入るときは、必ず本を持っていくと思います。

 

コワーキングスペース

これはごく最近についた習慣です。私は自ら進んで読む本は小説ばかりなのですが、最近はコーチングの学びを始めたことで、そうではない本も読むようになりました。実用書やビジネス書の類です。これが苦手なのです。どうしても読み進めることが難しいのです。没頭できない。本を読むのは好きだけど、すべての本が好きの対象というわけではないのです。

自分で見つけた対応策が「メモを取りながら読む」ということでした。その本を読み進める中で気になったところ、ふと止まったところで、メモを取ります。そしてまた、本に戻る。その繰り返しをすることで、実用書やビジネス書もなんとか読めるようになってきました。

メモを取りつつ本を読むのに適しているのが、周囲に人がいる環境です。面白いことにその方が集中できるんです。カフェもいいけど、コワーキングスペースが今のところベストです。

 

本を読む場所やシーンを挙げてみたことで見えたこと

1.本を読むという行為を単独ですることができない
上でも書いたように、私の読書は全て「ながら読み」でした。それぞれ全く別の目的がある「場所」と「シーン」において「本を読む」ことをします。

お風呂の中でも、電車の中でも、ベッドの中でも、食事中でも、本を読んでいるんだ、と表現してみると、まるで、本当に物凄く読書が好きな人のように見えます。でも、そのような見え方には違和感があります。まあ、読書は好きなのですが。

どちらかというと、これはつまり、私がそれぞれの目的に対して没頭できないことを意味します。お風呂に入る、電車に乗る、寝る、食事をする。これらを単独ですることが難しく、そこで、本の力を借りているというイメージです。 

誰かと一緒なのであれば、その場で本を読むことはしません。でも、ひとりきりであったら、お風呂に入るのも、電車に乗るのも、寝るのも、食事をするのも、それだけをすることに没頭できず、退屈を感じ、本を開くのだと思います。

一方で、「本を読む」という行為を、単独でするのも苦手です。心地よいソファで、コーヒーを片手に、「読書時間」を過ごすなんて、私には向いていないです。

2.一回の読書時間は短い、一度にたくさん読むことができない
また、一回の読書時間はそんなに長くありません。何時間もお風呂に浸かっていることはできないし、電車に乗っても大抵は十数分で目的地に着いてしまいます。

私は本を比較的「細切れ」に読んでいるということになります。読書には体力が要ると言いますが、かつてはどうだったかはともかく、少なくとも今の私は一度にたくさん読むことができないなと感じています。読みながら吸収することができなくなってきたのかもしれません。読んで、吸収して、消化して、読んで、、、の繰り返しです。

そして、なんというか「この先ももうちょっと読みたい」と思いつつ本を閉じるのが好きです。本の中に楽しみを取っておく感じがして。

3.複数の本を同時に読む
さらに、それぞれの「場所」や「シーン」ごとに読む本が違う、ということも付け加えておきます。

お風呂の中で読む本、電車の中で読む本(つまり外に持っていく本)、ベッドの中で読む本(外に持っていく本はベッドに持ち込めない)、食事中に読む本、は、みんな違います。自然と一日に複数の本を読むことになります。

お風呂の中では、単行本、漫画、雑誌が多いです。しかも複数持ち込みます。電車の中、つまり外に持っていくのは、文庫本ばかり。ベッドの中では、単行本、文庫本に加え、絵本のときもあります。コワーキングスペースで読むのが、実用書やビジネス書です。

よほど先の展開が気になる、とか、手放せない、とか、そんな気持ちにならない限りは、読む本は、読まれる場所が決まっています。

では、私にとって本を読むとはどういうことか?

さて今度は、あなたにとって本を読むとはどういことですか? と、聞かれたら、「ここではないどこか」という言葉が真っ先に浮かびます。「ここではないどこか」へ行くのが、本を読むということです。つまり、「現実逃避」です。

「ここではないどこか」という言葉は、江國香織さんの『絵本を抱えて部屋のすみへ』という本の中で出会いました。


この本は、江國さんがお薦めする絵本がたくさん出てくるのですが、モーリス・センダックの『ふふふんへへへんぽん!―もっときっといいことある―』という、ジェニーという犬が主人公の絵本を紹介するなかで「ここではないどこか」という言葉の魅力が表現されています。

ジェニーがそれまでの生活から抜け出して、旅に出て、舞台女優になるという夢を叶える物語です。ジェニーは犬ですが、「ここではないどこか」を探し求め、ついには彼女にとっての「ここ」を見つけるという冒険の物語です。

 

 

本を読むこと、特に、小説を読むことは、多くの人にとって「現実逃避」なのだと思います。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の主人公であるバスチアンが分かりやすい例かもしれません。目の前の嫌な現実から逃れて、「ここではないどこか」である物語の世界へ逃げ込むのが、読書のひとつの目的です。

 

 

読書体験は「現実逃避」に留まらないということ

バスチアンは『はてしない物語』を読むなかで、気づきと勇気を得て、現実世界の嫌な現実も受け容れるという成長を果たします。「ここではないどこか」に留まらなかったということです。

そう考えると、「現実逃避」はつまり「疑似体験」であるとも言えます。

「疑似体験」はその人にとって「疑似」ですが、同時に「体験」なので、「疑似体験」に伴う感情は本物です。小説を読むことで得られる大きな「疑似体験」として、その物語の中の登場人物の気持ちを味わうということがあります。現実世界では味わうことのない気持ちをどう学ぶか考えたとき、読書体験はとても重要だと思います。

私にとって「現実逃避」だった読書が、現実世界の私を大きく動かしたことがあります。それが『赤毛のアン』の読書体験です。私の20代後半をカナダで過ごすことになったきっかけと、今でもカナダが好きなきっかけを作った本です。

一冊の本が起点となって、私の人生や考えにどんな影響をもたらしたか、下記の投稿で語っています。

 

本を読むことを「もぐる」になぞらえるとどういうことか?

ここまで、「私の本の読み方」と「私にとって本を読むとはどういうことか」を考えながら書いてみて、改めて、本を読むことを「もぐる」になぞらえるとどういうことなのか、書きながら考えたいと思います。

イメージとして浮かぶのは、私の本の読み方は「小さなダイブの繰り返し」だなということです。毎日ある程度の回数、素潜りのように短く、さっと簡単に潜っては浮上することを繰り返しています。

このイメージを元に「私にとって本を読むとはどういうことか」を考えると、「小さなダイブの繰り返し」がいつのまにか「深く、広く、新しい世界へ誘ってくれる」という感じです。「もぐる」ことを繰り返していたら、いつのまにか深いところへ、または広いところへ、そして新しい世界へ来ていたというイメージです。

この「新しい世界」は現実世界の中にあります。私の視野を広げ、視座を上げて、私がそれまで見えてなかった世界を見せてくれるということです。つまりは、成長するということですよね。

改めてこう書いてみると、読書が視野を広げるとか、視座を高めるとか、成長するとか、ごくごく一般論ですが、すとんと自分の中に落ちた気がします。


おわりに

現在私が参加している「ブックダイビング ~一緒にもぐろう、本の海に~」の読書会では、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を扱っています。

まだまだ読み進めている途中ですが、読書会に参加することで、他の参加者の方の意見をうかがうことで、どんな新しい世界を見ることになるのか、とても楽しみです。


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