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読書メモ|『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

今回は平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

「分人」という考え方は微かに触れたことがあったけど、自分から見た自分と他者から見た自分とのギャップに対する違和感の話をした時に改めてこの「分人」の考え方を紹介してもらって、ちゃんと知りたいと思って読んでみました。


人間には「本当の自分」という中心があり、それが場面に応じてキャラを演じている。

わけではなく、
人間は相手次第で、その人との相互作用により自然と様々な自分、人格になりうる。その「様々な自分」が「分人」であり、自分というのはその分人のネットワークなのである。

そして相互作用により生じる人格であるということはつまり、私たちの人格そのものが「半分は自分、半分は相手のおかげ(せい)」であり、混ざり気のない純粋無垢な自己など存在しない。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

というのが分人主義の基本的な考え方です。

人は人との関係性の中に生きていて、それがどういう関係性なのかは相手が誰かによって違っているのだから、「相手によって自分が変わる」というのはある程度自然なこと。そう思うと、そこに違和感とか罪悪感を感じなくていいんだと思えます。

誰に対しても首尾一貫した自分でいようとすると、当たり障りのない自分でいるしかない。

八方美人というのは、誰に対しても調子良く、相手ごとに分人化しようとしない人のことである。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

とも言われていて、私はこの「当たり障りのない自分」、八方美人になりがちな気がします。

相手ごとに分人化するということは、相手との関係性を深めていくことなんだと思います。私は相手とより深い関係性に踏み込まないように、分人化しないようにしがち、あるいは分人化に異常に長い時間がかかるのかも、と感じました。

この分人化の傾向的なところは、これまでに形成されてきた強固な分人の人格の影響を受けうるのか、遺伝的なところもあるのか、どうなんだろう…?というのはちょっと疑問。

そして「個性」についても分人主義の視点から語られています。

個性というのは分人の構成比率である。だから、自分の現状を変えたいなら、分人の構成比率=付き合う人間・環境を変えることが重要になる。

快活で楽しい自分になれると感じる分人を足場に生きる道を考えるべきである。自分を好きになるのは難しくても、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは言える。その相手は生きた人間でなくても構わない。

重要なのは、常に自分の分人全体のバランスを見ていること。
自分が見つかるというのは、理想的な構成比率の分人を生きられるようになるということ。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

自分の嫌いな部分は、誰といるとき・どういう環境にいるときに出てきやすいのか、自分が嫌だなと思う分人が「誰(何)に対する分人なのか」を見極めて、その分人が現れる機会を減らしていくことが必要になるんだなと思いました。そして好きな分人は増やしていく。そうやって、心地よい分人のバランスを見つけていけると生きやすくなるんだろうな。


自分から見た自分と他者から見た自分との間のギャップに違和感を抱いていたのは、自分を誤解なくちゃんと理解してもらいたいと思っていたということなのかも。でも分人主義的には、相手のことを全部知ることも、自分のことを全部知ってもらうこともできないわけで、それでいいんだと思います。むしろ全部知ろう・知ってもらおうとするのは横暴なのかもしれない。
人間関係ってそういうものなんだなと思えると、「裏切られた」と感じたり、「あの人への態度は自分へのものと違う」とモヤモヤしたりしなくて済むのかもなと思いました。


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