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想いは湯となり泡となり

疑いは裏切り者である。
私たちは試みることを恐れることによって、
勝ち取れたかもしれないものを失う。

シェイクスピアの言葉。どんな文脈でどのように語られたか全く知らないのだけれど、時折思い出すようにしている。

自粛生活が始まり身体が行き場をなくしたころから、浴槽にお湯を張る頻度を増やした。一人暮らしの小さな贅沢、入浴剤は好みのものを満足するだけストックしている。最近はクナイプのバスミルク、「マカダミア・スターアニス・スイートオレンジ」が何よりお気に入り。(この香りを表現する言葉を持ち合わせていない)きめの粗い泡の湯に包まれる脚をぼんやり眺め、長い針が一周するくらいの時間を蒸気とともに過ごす。至福。

ゆらめく湯の中にいても、浴槽の縁に本やらスマホやらをひっかけて文字を追ってしまう。けれどいい意味で「心ここにあらず」、読む作業は休み休みになり、今日一日に、そして明日に想いを馳せている。

自分の目で見たものを、直感を信じればいいというのに、想像が作り出す不安を優先してしまうことがある。しょっちゅうある。自分の振る舞いや相手のリアクションを思い返しては、「もしかしたら」「実は」の続きにネガティブな言葉をくっつけて、想像の輪郭をより鮮明にしようとする。どれだけくっきりさせたところで事実の答え合わせはできないのにね。「がっかりされちゃう恐怖症」はすぐに小さな芽を出す。
その芽にお湯を優しく掛けて、シェイクスピアの言葉を心によみがえらせる。心が落ち込む方向に解釈しようとするのは、自分の感受性への”裏切り”かもよと言い聞かせる。疑いは、ゆっくり揺れながら、白い水の底へ沈んでゆくように見えた。


首筋に汗が流れ始めるころ、新しいトライにも少し心を向けてみる。チャレンジしたいものがあるか、今自分が満たされているか、どんな温度で取り組みたいか。水面から出たり入ったりする膝が打つ波の音、ゆるくなった泡、ぽかぽかの頬を感じながら考える。やるかやらないかの二択で迷っている場合、基本的に「やる」を選ぶのが私の人生だ。身体が温もれば迷いは解ける、湯の中で”疑い”が溶けてしまっていればなおのこと。湯立つ頭とは裏腹に、気持ちは綺麗に柔らかく整理される。”試みを恐れ”なくとも大丈夫、なんとかなる。薄橙の浴室の中でなら、自然にそう思えるから不思議。


長風呂でぱさぱさの顔を化粧水で潤して、眠りの準備をする。覚えきれない名のバスミルクの香り、ベッドの中へと持ち帰られた。疑うより、信じるより、やるより、やらないより、心が穏やかであるかどうかが結局私には大切なのだ。肌を滑るお湯は私を満たした。今日はとにかくそれで充分。

シェイクスピアももう眠る、
やさしい夜がくる予感。




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