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心を注いで、存分に私のままで

心地よさと、自分の性分について。

ざっくり言えば、「長女」をどこにいても発揮してしまう性格をしている。おせっかいとも世話焼きとも表現できる。たとえ周りが年上だろうと、気を配って動きたがるようなところが私にはある。身体が勝手に動いてしまうという方が近い。子どもの頃にはそんな私のあり方が疎まれて、「自分らしくいることを控える」ように場を過ごした頃もあった。(きっと押し付けがましかったのだと思う。) "周りに甘える"ということを覚えはじめたのもその時期だったので、結果的に色々と学べたのだとは思う。けれど、人の顔色を見てどんな自分でいるか探る癖がついた。心の向くままに、とはいかなかったのだ。

子ども食堂に通い始めてから、そういったことに悩まされなくなった。誰がどう思おうとやりたいようにやるようになった。
子ども食堂のスタッフにはいろんな仕事がある。会場設置、ご飯の仕込み、準備、配膳、片付け、掃除など。それらをしながら子どもと関わり、遊び、話を聞き、ただそばにいる。並行作業になりつつも、心をどこかに置いてきてはいけない。忙しくて、大変で、誰かに頼みきっていては到底回らない。なので、当たり前に、とにかく動き続けている。周りを見続けている。自分にできそうなことをやり続けている。つまり、生来の私をそのまま出せば済むようなことなのだと思っている。

私だけがそんなふうに動いているわけではない。場が心地よいものであるように、みんな自然にそうしている。「誰かのために」何かをすることが好きな人たちが、身体が進むままに動いている。そして、自分が苦手なことは自然と他人に託している。託された側もできる範囲で対応する。「大変だな」と思うことはあっても、それは「辛い」にはならない。綺麗事のように聞こえるかもしれないが、たぶん、ほんとうにそうなのだ。息がしやすい、良い意味で個人が目立たない。性格や人となりのとある領域においては、似た人が集まっているのかもしれない。


子ども食堂に限らないが、何かに取り組むうちに、求められているからやっているのか、自分がやりたいからやっているのか、不意にわからなくなる時が私にはある。ここに自分がいてもいいのだろうか、いなくなったら寂しいと思ってもらえるだろうか、ということを考える時もある。たぶん、根っこの方に「必要とされなかった」トラウマがあるからだ。世界の誰からも捨て置かれた、そんな気分になった時を覚えている。実際には全くもってそんなことはないのだけれど、しかしそれほどめずらしい感覚でもないと思う。大袈裟なのだ、とはいえ誇張でもない。寂しさがどこまでも追いかけてくるような夜は、切ないけれど何度だって繰り返すものだ。

寂しさと戦ったことのある人は、「居場所の手入れ」に勤しむのが好きだと思っている。誰かが心地よく過ごせる場を拵えるということは、同じ場に自分も居ることを許される気がするからだろうか。そう思えば、結局なにもかも自分本位なだけなのかもしれない。だとしても、共に過ごす誰かが目を伏せた時、声をかけずにいられない。思いを馳せずにいられない。心配させてほしい、迷惑だなんて遠慮せず、どうか寄り添わせてほしい。面倒も迷惑もない、身体と心を動かす「おせっかい」が、私の市民性そのものなのだから。

澱んだり晴れやかになったりを行き来しながらも、「私はこういう人間なのだ」ということに何度でも気づく。必要とされるうちは、ありのままの私をみせていけばよいと思うよ、と心の中で声がする。動きたいのなら動けばいい、喜んでくれる人たちに出会っているのだから。場を手入れし、誰かを満たし、そして、そこに心を注ぐ私自身も癒されていてほしい。どうやら今は、あたたかさの真ん中にいる。

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