ぜんぶぜんぶ包んであげたいよ
膝に座ってきて降りない子、してもしてもだっこをせがむ子、一緒にいてと手を引く子。何度でも、そんな子たちによく出会う。下は3歳、上は20歳。
何か他にやることがあったり、身体的に厳しいと感じたりしたときには、私はそれを普通に断る。「だっこ今しないよ」「これしてる間はできないよ」一緒の時間を過ごすからこそ、きちんと受け止めてあげられる余裕がない時には無理をしないようにしている。
この子たちの不思議なところは、断られたときに駄々をこねないこと。相変わらずぴたっと身体をくっつけてくるけれど、私の準備が整うまで待つ。「できない」と言ったのはこちらのくせに、その姿がすごく切ない。甘えたくて甘えたくてたまらずくっついてきたはずなのに、どうしてそんなに聞き分けがいいの。どうして大人の気持ちや状況に納得できるの。
偏った思いかもしれないけれど、あえて書く。
心の距離も物理的な距離をもゼロにするように甘えてくる子たちの背後には、やっぱり満たされていない生活がある。それは3歳だろうが20歳だろうが変わらない。小さいから慈しまれているとも、成人すれば寂しさから自立できるとも限らない。隙間なく愛されたかったのに、どうしても足りなかった。そんな想いだけは人一倍抱えているように、彼女たちの体温から感じてしまう。
なにかを誰かに求めて断られたとき、"気持ちを満たすために他の手段を探す" というのは幼いうちには難しいことだと思う。そうなると、結局「我慢」することになる。その我慢をどうやって覚えたんだろう、どうしてすぐに黙ることができるんだろう。目の前の子どもたちの言葉や様子をつないでいくうちに、その切なさに必ず行き着く。
はじめの方に書いた通り、それが難しい時には子どもの要望に無理して応えない。誠意なしに関わることをしたくないから。けれど、そのうえで、私にあげられるものならなんでもあげたい。甘えたいのなら、どこまでも甘やかしてあげたい。教育やしつけ(好きな言葉ではない)の場であれば、それがよしとされないこともあるだろう。血の繋がりも指導の役務もない、ある種無責任な立場だからこそ好き勝手甘やかせるのだと言われるかもしれない。
それでもいいから甘えさせてあげたい。心底思っている。空洞のある心を抱えつづけさせるより、遠い他人に包まれて安心する瞬間をつくりたい。出会って数時間にもかかわらず、私の腕の中で寝息を立てたあの子を思い出しては強く思う。
おまたせ〜と言うとにこにこで両手を広げる。
まってたね、まっててくれてありがとうね。
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