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ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 /ジョーと私

テストが近い私は本当はそれどころではないんだけれど…書かずにもいられず…
いつも通り少々身を削った文章になります。
悪しからず…

子どもの頃、近所のお姉さんのお下がりでもらったハードカバーの若草物語。本当に本当に大好きで、文字サイズが1センチくらいの子ども向け版だったけれど15歳くらいまでは読んでたなあ。当時はプリンセスへの憧れがかなり強くて、「貧乏だけれどドレス着れるのいいなあ」とよく思っていた。焼け焦げつきだけど。
実は四部作だけれど、私が読んでいたのは最もメジャーな一作目。マーチ家の4人姉妹、メグ、ジョー、ベス、エイミーの少女から大人に差し掛かるまでの物語。今回の映画は、回想のように一作目を綴りながら、彼女たちのその後が描かれた二作目を中心に展開される。

私と誰かの境界線

もはや読まなくとも観なくとも察しがついてしまうけれど、南北戦争時代に女性への尊重が「尊重」であるはずもない。物語の登場人物の女性は必ず結婚しなければならないし、そうでなければ死ぬエンドが必要なのだと、そういうセリフがあった。それ以外の結末は求められていない=売れないと言われた作家志望のジョー。稼ぎがなければ家族は支えられない、背に腹は変えられない。本当に描きたいものを捨てて、彼女は「世の中受け」する物語を匿名で書く。

「世の中受け」ってなんだと思う?世の中って誰なんだと思う?舞台になった時代、それはほぼ100%の確率で「男性」だったけれど、そしてそれは今も到底平等にはならないけれど、男女差別のそれよりも、もっと異質なものが生まれている気がする。
大多数の無自覚が、明確なかたちを持たないままたくさん世界に浮いている。時代が、文化が、あーだこーだと色々な言い訳を纏いそして誰かのせいにして、無自覚で無責任な決めつけをたくさんたくさん生んでいる。誰が生んでいるか、紛れもない私たちだ。
勝手に巻き込んじゃってほんとごめんなさいね、でもやっぱり私たち全員のことなんだ。どれだけニュートラルであろうとしても、所詮人は自分の立場でしか物事を理解できない、他人にはなれないのだからそれはある意味致し方ないのかもしれない。であれば、出来るだけ、出来るだけ視野を広く持たなくてはいけない、偉そうなことを言うけれどこれは義務だと思う。視野を広く持ち、その範囲内に入る人の側へ降りていき、相手の言語で思考で心で理解する努力をしなければいけない。

誰も彼も、全く同じになんて絶対になれない。どれだけ交わろうとしても必ずそこには身体を縁取る線が入る。それを互いに行き来可能な個性の境界線と取るか、社会が勝手に設えた乖離と捉えるか。私は前者でありたい、そうありたい。

「嫌い」と「不要」は別物、寂しい

結婚なしに女性の経済は成り立たないと叔母様がジョーに語る。親友のローリーが自分に想いを寄せていることをわかりつつも、結婚の意思はジョーにはない、相手が誰であろうとないものはない。
彼にプロポーズされたとき、そしてその後彼と音信不通になってしまったあとに、ジョーの心の声がそのまま口から表れる。

あなたは私にはもったいないくらいよ。けれど愛せないのよ!何故だかわからないけれど、愛せないの!私は誰とも結婚しないわ。 
女性には心だけでなく、知性や魂もある。
美しさだけでなく、野心も才能もある。
愛や結婚だけが女性の全てではないのもわかっている。だけど、今はとても、寂しいの。

なんだ、これは私の物語だったのかと涙が止まらなくなった。私の抱える不安は全てジョーの胸のうちにあるものだったのかと、嗚咽が漏れそうになった。これってとてもとてもすごいことだ、150年の時を超えても「私の」物語としてきちんと現代へと届いている。

前の記事で少し触れたが、私の性的指向はおそらくAロマンティックなのだと思う。他人に恋愛感情を抱くことができない。「なのだと思う」という断定の無さは、過去の恋愛の履歴と拭い切れない期待が残っているから。恋愛感情を相手に向けられても、私には返せるものがない。付き合った男性には「俺のこと好き?」と何度か言わせてしまった、それがとても辛かった。好きなのだと思っていた、というより好きだった。でもそれはもらったものとどうやら釣り合う重さではなかったし、相手を悲しませるものなのだと気がついた。
年齢を重ねると、ひとりの時間や自分のままに生きることを愛せるようになる。だから私は自分の生活にとても満足しているし、この日々を続けていきたいと思っている。

けれどどれだけ自分で満足していても、世の中からはイレギュラーとして扱われる。いつも「彼氏できた?いい人いる?」と聞いてくる友人に、意を決して恋愛指向について話すと「でもいつか誰かを好きになってほしいな!」と言われた。伝わることはこの先もなさそうだと悟った。今は恋愛の気分じゃない、という意味合いでしか彼女には理解してもらえない。
他の友人には言葉を失わせてしまった。そんな悲劇みたいな顔しないで欲しかったよ。ちなみに母からは拒絶反応が出ました。数日後、「悩んでしまって眠れないから」と電話が来た。もう2度とこの話はしないから安心してね。

恋愛を嫌悪したことなど、ただの一度もない。私だって、私だってなんでも話せるパートナーが欲しかったよ。誰かを愛してじたばたしたりしたかったよ。だけど私には愛せない、愛せないんだもん。「まだそういう人に出会ってないのよ」という言葉はただただ私の心を寂しくする。
恋愛がなくたって幸せと思う気持ちは本心だけれど、あればそれも幸せだと知っている。いつか結婚したいという気持ちも消えない、お母さんになりたいという気持ちも。
「あって当たり前」に曝されて生きている、だから私は時折とてつもなく寂しくなる。本質はちがったとしても、私とジョーの寂しさの正体は同一地点にあるんじゃないかな。
孤独感に襲われて「結婚断ったの早まったかな」と呟くジョーにマーチ家のお母さんは言った、「愛されたい、は愛ではないわよ」。
そうだ、そこは間違っちゃいけない。孤独は孤独で受け止めなければ、かえって寂しさを増やすことになる。あぁでも、きっとまた私は何度でもこの胸がキュッとなる感覚を繰り返すのだろうと思う。向き合い方、考えなくてはいけない。

自分で選んで生きること

メグの結婚も、ベスの善行も、エイミーの英断も、すべてすべて正解だった。別に不正解はないけれど、彼女たちが出した回答は結果よりも「自分で選んだ」ことに大きな意味がある。自分自身が腹落ちしてその先を歩めるのであれば、他人に精査される余地もない。誰かの用意した枠に収まるのはたしかに楽だけれど、悩んで迷って突っ切って生きるのは気持ちがいい。そう、気持ちがいいのよ。胸を張れるからね!
私は今再び霧の中にいて、この先の自分の身の振り方に頭を悩まされている。やりたかったこととそのための手段がぼやぼやしてきてしまった。けれどジョーが物語を書ききってくれたから、きっと誰かに届くように描き続けてくれるから、私はもっと悩まなくてはいけない。より私らしくあることへ遠慮なんてしてたら、ジョーは馬乗りになって私を殴るかもしれない。
(なんならそうしてほしいけれど)

いつも通り壮大な主語で書き進めてしまったけれど…思うことはいつも同じ。
想像力を持つこと、それを他人に使うこと。
良いと思うことに対して躊躇しないこと。
自分の軸を振り返らせてくれる映画が幾つもあることに、私は今日も感謝する。




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