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受け取った、だから与えられる


感受性のはなし。

昨年の夏、東京事変のライブビューイングに行った。その日のnoteを読み返した。
溢れて止まらない熱量と愛が詰まりに詰まっている。始まりから終わりまでほぼ泣いているようなオタクの私。言葉にすれば陳腐なものに収まりそうと思いつつ、家に帰るや否やお酒を片手にキーボードを打ち続けたことを覚えている。飲む前からもはや酔っていたのだけれど。

他人にどこまでこの舞台の素晴らしさが伝わるかわからないが、私にとっては日記なので、あの日の何もかもが自分の言葉を経由した瞬間ごとに蘇ってくる。当然Liveのブルーレイは入手しているので、その後も何度も観てはいるのだけれど、ビリビリと生身の感触が心に広がるのは結局直後に書いたこのnoteの文章。取り繕いのない、受けた衝撃のそのままが残されている(誰のためでもなく私のために)。感受性とはやはりナマモノなのだ。

インプットを馬鹿にしてはいけないと思う。
これが何になるんだ、いつ活きるんだ、ということをたくさん経験して私たちは大人になっていく。「活用する」という視点の全くない出来事も山ほどある。何気ない日常での出会いやすれ違いというのは概ねここにあたると思う。
力をつけようと何かに取り組むことは素晴らしい。でもそうではない偶然の瞬間も、知らぬ間に飲み込んでは血肉に変わっていくと思う。受け取ること、受け取る土壌を整えていくこと。それがきっといのちの豊かさの源になる。受け取ると、与えられるようになる。私はそういうことを信じていたい。

事変の音楽は私を満たす。満たされた私は生まれた感情をできるだけ精緻に言葉で表す。新しい表現がみつかる。誰かに伝えられる術が増える。伝えられることも増える。発信することで誰かの手助けができる。そんなループを感じたりもする。

なにかのために、ではないことが、私と見知らぬ誰かの背中を押す。それってとても嬉しい。全身の神経を使って感じられるようにありたい。まだまだ新しい自分なれると、26歳の私は願っている。

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