見出し画像

すべてを分かち合えなくても

ひさしぶりに集まった友だち数人とおいしいご飯を食べた。胸から下がぐつぐつしていてどうにも体調が不安定な日だったのだけれど、ひとり籠るより、楽しい人たちと会う方が元気になれる気がしたので約束を優先した。けらけら笑って、不快な身体を宥めつつ胃を温め、やっぱりみんながいてくれてよかった、と思って深夜に帰宅した。

その上での話。
楽しかったけれど、妙にさみしかった。

出会った時から数えてもう人生の半分近く、友情をそのままに過ごしてきた。たまたま仲良くなった私たちだけれど出会う前に歩んできた日々も環境も、そして出会った後に置かれた状況も全く違っていた。良し悪しではなく、「別の世界に身を置いている」人たちが集まっていることをそこそこの頻度で実感する。

おんなじ人間などどこにもおらず、ぴたりとくっつきたくともそんなことはできない。不思議なことに全く何も重ならない、という人を見つけることも難しい。そのことを時にはとてもおもしろく、そして時にひどくさみしく感じてしまう。

言葉が感情が空気が、相手に届くか届かないかということでこの感覚が左右されることを私は知っている。同じ温度で思いを共有しあうことは誰とでもできるわけではない。だからこそ新しい発見もあり、それはそれで楽しいのだけれど、自分と誰かを分かつもやっとしたなにかに、何となく気後れする。もう一歩踏み出して私の想いを伝えようとすることができない。いつもできないわけではないからこそ、この日は少しさみしくなった。

「私のほんとう」を話せる相手ではないことを悟る。実はずっと前から気がついていたのだけれど。ただ、それはそれとして、彼女たちのことはいつもだいすきで、唯一無二の存在に変わりない。話せなくても、私たちは私たちのままできっと続いていく。

ある10代の女の子が「自分の表面しか見せられていないから〇〇ちゃんのことは友だちと呼べないの」と私に言ったことがある。〇〇ちゃんとはよく遊ぶし、大切に思っているけれど、本当の自分を曝け出すことができていないから"友だちと呼ぶには申し訳ない"ということだった。全てを捧げなくても、見せられるところだけで付き合っても、友だちと呼びたいのならそれでいいのよと答えた。何もかもを曝け出すことができる人間関係など、世界にどれほどあるのだろうかと思う。その人といるときの自分を好きだと思えたのなら、過ごす時間を楽しめたのなら、それで成立するのが人と人。そうじゃない?ちがうかなあ。

「私のほんとう」も「あの子のほんとう」も、上手く受け止めてもらえる先を探して時々漂う。無理に抱擁されるより、ちょうどいい収まりどころを他で見つけるほうが心地よい。さみしくなってもそれで終わりにする必要はない。相手と私だから紡げる関係性をつづけてゆく。全身まるごとでつながれなくとも、相手と私だから温めてゆけるものがあるはずだから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?