『ドニイズ』ラディゲ(2/300)
あらすじ
17歳の「ぼく」はパリでの放蕩暮らしに疲れて、田舎で療養をすることに。
早くも田舎娘のドニーズと恋に落ちたぼくは、彼女への情欲を持て余しながらも、彼女の処女を奪うことに抵抗を覚え苦しむ。
そこで、牧童を使って彼女の処女を奪わせることで、その責め苦から逃れようという計画を立て実行する。
画して、ドニーズと交わるようになったぼくは、他人に彼女の処女を奪わせたことに後悔を覚え始め、同時に彼女への愛が深まっていくのを感じていた。
パリへと帰る直前の夜、それまでこれ以上本気で愛することを避けるために、呼んだことのない自室へドニーズを招待するぼくだったが、気が付くと朝を迎えていた。
机の上には、ぼくが鼾をかいていた眠っていたことを咎める、彼女の置手紙があった。
男の恋心は性欲との綱引き
男恋愛心理の拙さと滑稽さが、他のどんな男性恋愛心理学書より明確に書かれているので、男女必見の短の編小説として推薦したいくらいの小説。
物語は田舎を訪れた「ぼく」が、ドニーズを情婦=セフレにしようと策略を巡らすものの、その彼自身に恋愛感情も芽生え始めて取り返しがつかなくなるという、ジレンマに満ちた内容だ。
が、それが男性の恋愛の機微を捉えているので面白い。
男性は性欲と愛情の綱引きを宿命づけられた生き物だと思うと可愛らしく思えてくる。
主人公の「ぼく」は、そんな男性心理の矛盾を事細かく説明してくれる。
それでも貴女はセックスしますか?
男の恋愛感情は開封した炭酸飲料のボトルよりも、早く気が抜ける。
男が優しく振舞い、エスコートし、甘い言葉を囁くのは、セックスというゴールに向けての一挙手一投足なのだから、当然かもしれない。
セックスの前後で、男が天と地ほどの変身を成し遂げるのはそのためだ。
こんな男のお門違いな悩みなんて、本当に女からしたらどうでもいいのだけれど。
でも、処女の値打ちというものが、男性の性欲を愛情との天秤にかけさせたのだと思うと、古臭い処女信仰にも、一応の合理性があるように感じられなくもない。
女性が自分の女性性を安売りせずにいることが、男性の男性性を愛情へと導くのだとすると、男と女の性欲への向き合い方もまた変わってくる気がする。
男も男で、恋愛関係になる前に体を許すような女を軽く見ている。
女の前で、男は自らの価値を値踏みする。
女の選択が、男の性欲にとって不都合であればあるほど、男の愛情へと重みがかかる。だって、交際前に体を許すような女なら、やっぱりセフレ止まりになるし、そんな女は男の性欲のなかで、ぼやけた顔と具体的な性的特徴を持った“女”になってしまうわけ。
発情だって大切
展開の小ネタも面白い。
小川で全裸で水浴びをしていた「ぼく」が『基督にならいて』(トマス・ア・ケンピス)で、股間を隠しながら寝転がっているのも、相当に可笑しい。聖書の実践の書として脚光を浴びていた厳格な宗教書が全裸の青年の股間を覆い隠しているのだから。
「何を読んでらっしゃるの」と余裕たっぷりに意地悪を仕掛けるドニーズもまぶしい。
まあでも、恋愛が子孫繫栄のための一手段なら、軽率な男女となし崩しのセックスも必要だよね。
欲情の欠片ももたない身体の健康は、どこかで損なわれている。
全ての欲情に真剣さが伴っていたら、人間の数はもっとずっと減っているような気もしなくはない。
善悪や道徳倫理が、陽気な小川のほとりで、若い男女の痴話で軽く風に舞うようなのが、人間にとって最も健康なのじゃないかな。とそう思った。
エッセイ2/300 恋愛史のススメ
恋は人生の状態異常だ。恋は人生の衝突事故だ。
きっと、恋しているときのわたしたちは大気圏を飛び出てしまっている。
気づいたらそうなっているから、防護服も酸素マスクもつけちゃいない。
ロケットのように、次々にそれまで身に着けた自分をはぎ取られて、
笑ってしまうくらい小さくて、無防備な自我で、無重力遊泳へ出掛ける。
道徳も倫理も損得感情も、燃え尽きて、今ごろはどこかの海を漂ってるころだ。
だから、すべての恋愛は、遭難だ。
誰も助けてくれない。誰にもSOSは届かない。
誰にも知られないまま、一人で狂っていく。
萎縮しなくていい。みっともなくていい。もう何のポーズもとれないくらいに、無力なままの、その恋は、あなたの人生とともに永久に失われる事実なのだから。
恋愛はあなたの歴史なのだから。
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