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ヤスヒコおじさん④

人生は色々なモノで出来ている

「集まって輝く」

父が亡くなり正直なところ、私は心底安堵をした。
万が一、私が先に逝く事があったら大変な事になるからだ。
家財道具を処分をし母の位牌とアルバムだけを持ち帰る。 

父の猫をどうしようか。
叔母から引き取り先を探すが思うように進まないと連絡が来る。
いっそ我が家でお迎えをしようか。
この提案に娘達は大賛成で両手を挙げて喜んだ。

良い子です。


猫は女の子なのに男の子の名前を付けられていた。
いくら説明をしても認知症の父には理解が出来ず、昔自分が飼っていたペットの名前をつけたのだと思う。

父親が猫を拾ってきた当初は絶対に認めないと私は伝えた。
「もしお父さんに何かあったらこの仔が可哀想だよ。」
「どうするつもりなの。」
結果、父が亡くなった今我が家にやって来た。
正に、してやられた感が拭えない。

父の家にいる時、この仔はとても警戒心が強く、一切近付いて来なかった。
近寄れば走って逃げる。
うっかり手を出せば猫パンチで叩く。
威嚇して鋭い爪で引っ掻いてきたりもした。

どうなるか不安だったが我が家に到着をした途端、私にぴったり張り付いて離れない。
家族みんなで可愛いいこの仔が大好きになった。

こんな可愛い仔を残してくれてありがとう。

亡くなった後の後まで世話が焼けた父。
私は父が残した数件の支払いをせざる得なかった。
でも何故か猫のおかげで父は、良い仕事をして旅立った様な雰囲気になってしまっている。

地元のミュージックバーにて。

お金がある訳ではないけれど、現在の私は毎日自分のペースで生きている。
いつも一人で音楽を聞いていた10代。
都合がつけばちょくちょくライブに出向いている今。出かける度に新しい発見や出会いがあり、まるできれいな色水をこぼしたかのようにそれが広がっていく。

また同時に私は田舎のだだっ広い家で本を読んで一人の時間を過ごしていた。
こうして拙いながら文章を書いている。少しはあの読書量が役に立っていると思いたい。
そして散々困らせてくれた父親がネタを提供してくれているとはおかしなものだ。

人生、何がどうやって作用したり影響を受けたりするのか分からない。

北鎌倉「円覚寺」

夫の位牌に子育てが終了した事を報告をしたある日の事だ。
「もしかして私は大手を振って海外旅行に行けるのでは?」と思う。と、同時にずっと昔に父と訪れたタイの事が浮かぶ。いつかまた行ってみたいとずっと願っていた。
そうなると鉄砲玉の自分は、今すぐにでもパスポートの申請をしたい。
が、まずは同居をしている次女に相談をする。
「お母さんさ、もう好きにすればいいと思うよ。」が次女の答えだった。
他の娘達も後押しをしてくれる。
そんな温かい言葉を聞いた私は翌日には隣駅にあるパスポートセンターにあさイチで向かった。

とうとう去年の12月に正に35年振りに念願のバンコクへと降り立つ事が出来た。 

成田発、スワンナプーム行きの飛行機が離陸した瞬間の事だ。
無事に子育てが終わった事と気持ち良く送り出してくれた娘達が浮かび涙が溢れる。周囲に泣いているのがバレないように慌ててうつむいた。

この旅行をきっかけに私は一人で国内外を問わず旅へ出るようになった。

とうとう流暢にはならなかった英語だが、どうにかこうにか海外では困らない程度のやり取りは出来る。
でも次に生まれてくる時はバイリンガルいや、トリンガルになりたいと願っているのが本当のところだ。

バンコクのヤワラート(中華街)

今まで沢山悲しい事があったけれど、振り返れば全部が全部悪い事ではない。  
一人ではなかったしいつも誰かが救いの手を差し伸べてくれた。私の話に耳を傾けてくれる人もいた。

生きていると大小様々な色とりどりの出来事がある。それらが集まれば世界でたった一つの鮮やかな物になる。
その鮮やかな物が私の人生そのものなんだと思う。

これからは色に加え輝きを取り入れたい。ミラーボールの様な老人になろうと決めている。

そう言えば、あれほど母を愛していたと語っていた父はあの世で会えたのだろうか。
父のやらかし具合を見ていた母にそっぽを向かれたかもしれない。
そんな事を思うと笑いが込み上がる。

でも私には知る由もない。

父の健闘を祈るしかない。

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