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弥生、疼く憂い

何日にもわたって雨の降りやまない肌寒い日が続いた後、数日、冴えわたるような青空の広がる日が続いたある日のことだった。

昨夏に仕事の食事会で会話をした人と、別件で打ち合わせをする機会があった。関連会社に出入りする人なので、お互いに何年も前から知ってはいるが、特に深く話したことはなかった。

食事会で、その人がかつて私に興味があったことを知った。
私以外、皆お酒が入っていたのと、30~40代が中心で男性の割合が高かったこともあり、夜が更けるに従って女の話になったのだ。ただ、その人(Aさんとしよう)が私に興味があった時期、私には相方がいたようで、食事会の時はAさんはフリーではなくなっていたため、「なんだ、それなら今度フリーになったら教えてよ」と冗談半分で言ったその答えは「イエス」だった。

その後Aさんとは、どこかの展示会で2度ほどばったり出くわしたが、私は取引先の人たちとおり、挨拶しか交わさず、この青空が広がるある平日の昼間まで再会することはなかった。
Aさんが食事会の何気ない会話を覚えていたかどうかは定かではないし、私も本音を言えばAさんの外見が全くタイプではないのだが、会った瞬間、Aさんはあいさつ代わりにハグをしようとしてきた。その場は一人ではなかったのと、正直、社内で真昼間からハグをされるのは、たとえそれが大好きな俳優やダンサーだったとしても気が引けるものがあるから、Aさんについては思わず避けてしまった。しかしその後も、何かにつけ、背中や腕に触れられ、久しぶりの晴れ間の暖かさも手伝ってか、脳が次第にぼーっとしてくる自分がいた。ただ、他の人がいる前でそんなにべたべた(とはいえ、セクハラというよりは、単なるスキンシップ的な触り方なのだろうが)触れられると身体は余計に恐縮し、奥だけがぽーっとしたまま、打ち合わせは終わった。

このプロジェクトの継続のために、帰り際に会社携帯の番号交換をした。
今のところは個人的なやり取りは一切していないが、今後、もし先日のようなことや誘いがあったら、私はどうすべきか、などと、魔の指す午後遅くの時間にふと携帯を見て、ぼんやりと妄想をする一時がある。

たまたま、本当にたまたま偶然に、Aさんに会う前々日から読み返していた文庫本がある。私が読み返しに費やす時間は大体5日で、夜寝る前やダンスのレッスンの待ち時間なのだが、その内容が自分の気持ちを盛り立てるのに一躍かっているので、読まれた方も多いとは思うが、少し紹介したいと思う。

その本は小池真理子氏の「午後の音楽」という。
夫に愛人がいたことを知り、離婚をし、シングルマザーとして大学教員及び翻訳をする50くらいと思われる女性と、その女性の妹の夫、つまり義弟とのメールの会話で綴られる恋愛小説だ。
下卑た言い方をすると不倫小説になるのかもしれない。しかしそこで綴られ紡がれていく、最初は蜘蛛の糸のように細かった脈が羊毛の束ように太く柔らかなものに成長し、そしてそれがまた降り続く霧雨に圧し潰されていくように萎んでいく、そのさまが本当に大人の恋愛で、今の自分にしっくりくるというか、うなずける箇所がたくさんあることに気づかされてしまった。刊行されて初めて読んだ当時は30代前半で、大きな恋愛の痛手を被ったことがまだなかった自分には、この小説は勿論魅力的ではあったけれど、わかり得ない世界が広がっていたのも事実だ。しかし今回読み返してみて、「あぁ、今というこの瞬間にまた読み返してよかった」と思える箇所が随所にあった(実は読み返したのは3度目か4度目だが、こんなにすんなり自分の中に入ってくることはなかった)ので、触れてみたい。

私たちは、「言葉」が先行していました。まず初めに膨大な「言葉」があった。それを何度となく交わしあっていくことから、その先に何かが生まれた。そして今の私たちがこうして、ここにいるのです。
互いに見つめ合ったり、触れ合ったりすることから始まったのではない。私たちの間にあったのは、あくまでも「言葉」であり、だからこそ、あらかじめこんなに理解し合うことができたのだけれど、それでも、触れたい時に、指を伸ばして互いに触れることはできなかった……。指先に相手の肌を感じることは叶わなかった……。
これまで、触れ合わずにいることをなんとも思わなかったのに、今はもう、そんなことは考えられない……。「言葉」はどこに行ってしまったのでしょう。あんなにたくさん交し合っていた「言葉」が懐かしくなると同時に、もう不要になったな、という実感がひしひしとわいてくるのを、私は今、どうすることもできずにいます。

昨夜、私たちはこれまでになく、寡黙でした。表向きはいろいろなことを話したのに、むしろ、饒舌すぎるほどだったはずなのに。

集英社文庫「午後の音楽」229頁より

「言葉がなくなる」現象は、恋愛の痛手を被る以前から私には何度も起きたことだし、少なくとも片手で数えられるほどは30を過ぎれば多くの方が経験済みでは、と思うが(もし、1人の人と最初から最後まで添い遂げようとしている方がいらっしゃれば、それもある意味羨ましいことですが、対象外です😅)、その時の心情をきちんとした「言葉」で読んで吸収する、あるいは自分の「言葉」で説明できるようになったのは、やはり痛手を経験したからこそでは、と今回の読み返しで実感した。

他にも幾つも心にじわじわ染み渡る箇所があるが、紹介はもう1か所にとどめておこう。

一昨年だったか、東京で最高気温四十度近くを記録した時のことを覚えていますか。確か、梅雨明け直後の七月だったと思います。
その日は、ニューヨークに住んでいるアメリカ人の人気童話作家が来日し、神田の書店でサイン会が行われました。
(中略)
……変だと思うでしょう?何故、今、私が、こんなどうでもいいようなことを書いているのか、わかりますか。
二年、という時間をさかのぼってみることに、どうしようもなく意味を感じてしまうからです。こだわってしまうからです。
あの、すさまじく暑かった夏、私はまだ、龍士郎さんを知らなかった。私たちは単に、義理の姉と弟という関係に過ぎなかった。
……今になっても私はなお、そんな埒もないことを考えてしまう。二年前の夏ばかりではありません。去年の今頃はまだ、私たちは出会っていなかった、などと考える。ちょっとした些細な記憶を甦らせるたびに、あなたと過ごした時間がそこにあったのかどうか、確かめてみずにはいられなくなる……。
愚かなことではありますが、こういう癖は、今しばらく続くのだろうと思います。どれだけの時間をやり過ごしたら、この癖をやめることができるようになるのか、まったく見当もつきません。

集英社文庫「午後の音楽」304-305頁より

もう、コメントをする必要もなく、大半の方が今、自分のほろ苦い(あるいは、とてつもなく苦いかもしれない)経験を当てはめて記憶をなぞっていることだろうと思う。

こういう小説は、やはり春に、外に出るたびに様々な色・かたちの芽吹きが見られる時期に読むのが似つかわしいかな、と思うので、未読で興味を抱かれた方には是非お勧めしておこうと思う。

♂♀おまけ♀♂
おまけとして2本、「言葉」などは最初からなかったし必要ともしない関係を描いたスキャンダラスなフランス映画を紹介しておこうと思う。

「おいおいシマ子、ほんのり桜色のとろりとした葛湯に浸っていたかと思っいきや、急に目覚めて性的な映画を紹介するのか、さてはレッドブル2、3本一気飲みしたな」くらいに思われる方もいらっしゃるだろう😂

1本は割と最近見た映画だが、紹介したくても誤解されそうで、携帯のギャラリーにポスターだけ暫く保存していたのだが、運よく(?!)この記事を書くに至った出来事があり、「そうだ、ある意味正反対ではあるけれど、『禁忌』という意味では同類ではないか」ということで、遂に携帯のギャラリーから姿を消す日がやってきた。もう1本は、これを見たことによって過去の記憶、映画アーカイブから自動的に抽出された作品だ。

・1本目-l'Été dernier(英題: last summer) 2023年

ポスター: l'Été dernier

Anneは未成年者に対する性的暴力を専門とする有名な弁護士である。彼女はパートナーの17歳の息子と出会い、近親相姦の関係を始める。そうすることで、彼女は自分のキャリアを危うくし、家族を失う危険を冒すことになる。時が経つにつれ、その関係は破壊的なものとなり、ティーンエイジャーの義理の息子は極度の精神障害に陥る。

Wikipediaより

50代の敏腕弁護士と、学校でトラブルを起こし父親の元で一時的に引き取られた精神不安定な義理の息子の関係であるから、話が進むにつれ、知性と強さ、そこから生み出される卓越した語彙力に打ちのめされていく少年との間の、互いの身体は近くなっても、精神的な遠さが顕著になっていく、その様が見どころかな、と思う。
それから、Anneの衣装が上品で素敵なのも、別の意味での注目ポイントだ。

この映画では、最終的には「言葉」がものを言わせるが、関係を始めるにあたっては不要だったので、その辺も、葛湯とレッドブルの違いほどはありそうだ。

・2本目-Ma mère(邦題: ジョルジュ・バタイユ ママン) 2004年

ポスター: Ma mère

自堕落な父親と暮らしていた17歳の少年Pierreは、夏休みにカナリア諸島に住む母Hélèneのもとへ行く。そこで父と母が憎み合い、裏切り合う結婚生活の破綻に直面する。父親はフランスに帰るが、突然死んでしまう。母親は、純朴な少年にとって、忌まわしい父親によって冒涜された純潔を体現していたが、彼女から自慰や異性との性交渉といった性の手ほどきを受け、性に開放的になるにつれ、彼は倒錯した性癖を露わにし、サドマゾヒズムと近親相姦へと引きずり込まれていく。

Wikipediaより

大好きな女優、Isabelle HuppertがHélèneを、そして今も昔も輝きを失わないLouis GarrelがPierreを演じており、公開当初、確か渋谷のLe Cinemaで見たはずだ。当時私はまだ20代で、このテーマはかなり重かったけれど、BatailleやRadiguetの作品は大学の頃少しだけ読んだことがあり、勿論、Marquis de SadeとMasochについては少なからず読んだので、それで主演がIsabelle Huppertとあれば見ない理由がなかった。

ただどちらも、万人にお勧めできる作品ではないので、興味がある方はご覧いただければと思う。

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