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親父の美術、息子の美術

私の親父は若い頃、画家を目指していた。

東京芸術大学美術学部を目指していたらしい。

ただ入試に3回チャレンジして失敗した後、諦めたらしい。

今でも難しい(?)のかもしれないが、当時は、7浪とか8浪とかの鬼気迫るライバルたちが入試会場にわんさか集まり、気持ちが萎縮してしまうほどだったという。

ほかの大学の受験を考えなかったと聞いたことがあるが、何やら「芸大病」なるものにかかると他の大学に進む道が考えられなくなるとか言っていた。

因みに、「3浪」したときは頭がクラクラして、本当に「この世の終わり」かと思ったらしい。


さて、そんな親父の息子、つまり私であるが、、、全く絵心はない

私が子供の頃、親父は私に美術の楽しさを教えようと思ってか(?)、「ちぎり絵」(紙をちぎって、ノリでペタペタと貼ってゆき、最終的に「絵」を完成させるやつ)を私に教えてくれたことがある。

実は、その頃からすでに、私は「絵」を描くという行為に相当なコンプレックスを抱えており、幼稚園の頃、皆が絵を描くさなか、保育士の先生の元へスタスタと駆け寄り、「せんせえ~、人かけない~」と言って困らせたことがある。

私の「先生、人描けない」事件は、保育士さんが直ちに私の母にチクり、母を当惑させ、何十年経ったと思っとんねん!という今でも、母にからかわれたりする。

そんな母も負けず劣らず、凄まじく破壊力のある「画力」の持ち主であり、私は100万パーセント、この人の美的センスを受け継いでいる。

因みに、姉の描いた絵は子供の頃に何かの表彰を受けたことがあり、親父と姉は性格も特技も、やることなすこと「ダダかぶり」である。

そう言えば、上に述べた「親父による『ちぎり絵』講座」であるが、私は本当に苦痛で仕方がなかったのだが、半分は「親父が怖い」という理由で、半分は「親父をガッカリさせたくない」という理由で、親父の指導のもと、必死にペタペタと作業を続けた。

ただ、いやいや作業をしながら「これ、いつまで続くのかなぁ~」と感じていた。

そしたら、その途中で親父がボソッと「、、、お前、、、楽しいか?」と聞いてきた。

私の本音は「ちっとも楽しくない」であったが、上に述べたように親父が怖く、また失望させたくもなく「、、、うん、、、」と答えた。

正直、そのときは「恐怖」の感情が勝っていた。
親父は元来、気が短く、私が子供の頃は勢いもあったので、それはそれは怖かった。

ただ、親父はたぶん、私の心中を察したのであろう、全く不機嫌な様子も見せず、怒りもせず、「もういいよ、やめよう」と言った。

私は、いつも熱い親父が、そのように冷めたリアクションをすることなど全く想定しておらず、少しキョトンとしたが、「ちぎり絵」から解放された嬉しさが勝って、結局、速攻やめることとした。

その日以来、親父が私に「絵」なり「ちぎり絵」なり、美術的な創作活動をさせようとすることはなかった。

美術はやはり楽しんでやるべきだというような、親父なりの美学みたいなものがあったのかもしれない。

、、、

因みに、私は絵を観るのは好きであり、たまに美術館に行って「ほぅほぅ」などと、それらしく頷いてみたりする(そう言えば、こうやって頷いてたら、実はそれはタダのフレームであり、作業員が後から「絵」を運んでくるというアメリカのコントがあった)。


「今日から1年間、皆さんの美術を担当する田中(仮名)です」

中学での初の美術の授業である。
40歳手前の女性の美術教師が自己紹介をしている。

私は、幼稚園の頃の「人かけない」の呪縛を小学生になっても引き摺り続け、都度「人が登場しなそうな絵」を何とかこしらえたり、自分でも訳の分からん「妖怪 泥田坊」みたいな気持ち悪い「粘土細工」などを騙し騙し作りながら、小学校の「図画工作」の時間を何とか凌いでいたのを覚えている。

ただし、中学に入り、「美術」の成績も入試に関係してくる(要するに、副教科もすべて含めた「通信簿の総合成績」によって、狙える高校が決まってくる)ということを聞き、どんよりとした気持ちになった。

その頃、クラスメートの間では「どうやら、通信簿で『1』を取った日には、それが何の教科であっても、入試可能な高校の選択肢がかなり限られてくるらしい」という噂となっていた。

、、、やばい、、、美術で「1」を取ったら、高校に行けなくなるかも、、、母ちゃん悲しむだろうな、、、みたいなことを私は心の中で真剣に嘆き始めた。

その中学のときの成績の付け方は、いわゆる相対評価というやつで、全員に3とかを付けることができず、1〜5までを満遍なく生徒に割り振らなければならないという話であった。

それだと、クラスの中に必ず5の生徒、そして、、、1の生徒も出てくるわけか、、、と考えて、気が重かった。

初の授業で、美術の先生が、自己紹介をこう締め括った。

「~というわけです。あと最後に、先生の性格ですが、長所は優しいところです」

どうやら、その先生は冗談でもなく、ホントに自分で自分のことを「優しい」と思っているようであった。

確かに、その後の授業でも、声を荒げることもなく、話し方も穏やかであった。

怖い美術教師に「何だそれは? 泥田坊か何かか?」などと凄まれるようなこともなく、それは「美術」に苦手意識を持っていた私の唯一の救いであった。

ある日、遂に恐れていたことが起こった。

「お題」は何だか忘れたが、「絵」を描き、それに絵の具で色付けしたものを成果物として提出するというタスクが全生徒に課された。

要するに、私が描く「絵」に点数が付けられ、通信簿に数字(成績)となって反映されるというホラーが現実になったのである。

「絵が滑ると人生終わる」

(10文字ホラー)である。

さて、私は今でも、そのときに描いた作品を明確に覚えている。

「上皿天秤」というのを覚えておられるであろうか?

そして「分銅」というのを覚えておられるだろうか?

私は「上皿天秤」の上皿の1つに「100kgの分銅」を置き、もう一方の上皿に「とぐろを巻いた大蛇」を乗せ、それらが上手くバランスを取り合っているという絵を描いた。

そして、タイトルを「Heavy 蛇」として提出した。

うんうん、わかっている。

完全にスベッっておられるよね。


当時は「掛詞だ!」みたいに周りに言っていたが、まさかのダジャレである。

すでに「絵が泥田坊」というハンディキャップを背負っているにもかかわらず、さらに自らの闘いを「ハードモード」にしている。

何か普通に恥ずかしいので、いったん「2017年の六義園の枝垂桜」でも貼って、空気を中和させたい。

さあ、桜はかくも美しく、そして儚い。
スベる?この自然の創作物を前に、それがいったい何だと言うのさ。


まあ、中学生の考えることだ、、、とも言えるが、今となっても、私の考えるジョークなんて大して変わっていないのかもしれない。

いずれにせよ、私はもはや作品と呼べるかどうかわからない「それ」を提出直前に、一度「優しい先生」に見せた。

先生はそれを見て、、、一瞬、絶句した後、何やらブツブツと「おまじない」のようなものを唱え始めたように見えた。

先生、気を確かに!
生徒を前に、スピリチュアルなものに救いを求めないで!

私は先生にひと言、「、、、先生、、、何かヘンですか?」と聞いた。

先生は咄嗟にハッとして「えっ? いやいや、先生は、、、アレだよ、、、何というか、、、人の描いたものは、その人特有の感性だから、、、それはヘンとか言うことは絶対に言わないし、、、それは判断が難しいことだし、、、」と、毒にも薬にもならないようなことを言い、キョどり始めた。

私は、そんな「優しい先生」が何とも哀れになったが、こちらも高校受験がかかっているので、「まあ、、、先生、、、色々あると思いますけど、、、ボク、、、高校に行きたくて、『1』とかはちょっと、、、困っちゃうって言うか」みたいなことをゴニャゴニャとネゴし始めた。

そのとき、なぜだか「半分は画力、半分は交渉で何とかイケルかも!」という気がしたのを覚えている。

「う~ん、まあ、、、先生は、1とも何とも言わないけど、、、」

やばい!ここの交渉の場での頑張りで、何かが変わるか、何かが終わるか、、、そんな気持ちになった。

そして、暫く、自分が描いた「絵」の良し悪しはそっちのけで、ひたすら「先生の慈悲心」みたいなのに訴えかけ、双方ともに押したり引いたりの禅問答を繰り返した挙句、一か八かの気持ちで、「絵」を提出し、授業を終えた。

その提出日以来、私は中学で初の「美術」の成績がどうなるものか、ハラハラと結果を待った。

、、、そして、前期も終わり、ついに通信簿を手にした。

美術の成績はいかに!

、、、

、、、「2」だった!


私は今も思っている。

あのときの最後の「交渉」がなければ、「1」が付けられた可能性も決してゼロではないと。。。

、、、さて、本記事の1行目「私の親父は若い頃、画家を目指していた」から、息子の代になり、偉いレベルで着地したものだ。


ところで、私は結局、中学3年間、美術の教科はほぼ毎回「2」の常連となり、ついぞ「1」を取ることはなかったとさ。

「優しい」先生、ありがとうございました!









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