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aki先生インドネシアの銀の町へ行く

金銀はなぜ人間を惹きつけるのだろう?

人間だけでなくドラゴンにも愛着させていたり、呪術起源とかM細胞とか諸説あるようだ。今は貴金属の希少性や投資価値、産業利用の有効性で理由づけするが、私はその永遠に変わらない輝きが終わりある人生を知る人間を惹きつけるのだと思う。人を美しく見せ、自身が死んだ後も変わりなく輝き続け、子々孫々に伝えうる形見に、生涯の短かった古代の人は、現代よりももっと思い入れたのではないか。

まだメッキでできたおもちゃの指輪しか持っていなかった子どもの頃、母の留守にこっそり母の宝石箱を開けて、中に輝く美しいアクセサリーをためつすがめつ眺めていたことがある。むかし代官山で母の叔母にあたる人がアトリエを経営していて、そこのデザイナーが銀細工のアクセサリーを作っていた。母もそこで制作されたデザイナーの一点ものをいくつか持っていた。宝石箱を開けたことを母は叱らなかった。そして、「いつか貴女にあげるね」と言ってくれた時、母もまた同じよう祖母の宝石箱を開けたのだと思った。

暖かく光るシルバーの価値を知ったのはずっとあとだが、「赤毛のアン」シリーズや「大草原の小さな家」「風と共に去りぬ」の中に登場する貴婦人の装身具についての記述に憧れた。スカーレット・オハラが、母のカーテンを裁断して仕立てさせた松葉緑のベルベットのドレスを纏い、ゴージャスなイヤリングを揺らせてレット・バトラーを誘惑しようとするシーンや、若い娘たちが母親からまだ譲られていない宝石類に憧れていつかは自分も、と社交界へデビューする日を待ち焦がれる、男たちが自宅に送り届けた自分の想い人が、寝室のカーテンを透かせて若い娘らしい装身具を外す姿を、彼は彼女の家の外から見上げてその想いを募らせる、小説中のそのような世界を夢見ていた。スカーレットは豪華なダイヤが似合ったと思うが、「若い娘らしい装身具」という表現はそれほど高価でない花や蝶などの甘いデザインの銀細工やカメオやパールを想像させた。世代を超えて母から娘たちに引き継がれた文化や文芸がそこにはあった。

大学へ進んだ頃、都会っ子の女子大生たちが、親から十八か二十の記念に贈られた銀や金のアクセサリーを身につけて構内を華やかに闊歩していた。附属小学校からエスカレーターだと純金、中学からだと18金、高校からだと金メッキ、などと学園の外部からの途中入学の連中が、お入学組の品の良さを妬んで自己を卑下して自分たちをメッキになぞらえて揶揄する向きもあった。それほど不純物の少ない貴金属の輝きはひとを魅惑する。大人だけでなく、キラキラ光るものは小さい子どもも大好きだ。日本の保育園での工作指導には、しばしば金銀オーロラの色紙やペン、スワロフスキーやアクリルビーズを使ったが、狙いが外れたためしがない。

私は中でも銀が好きだ。いろいろなデザインのアクセサリーをいくつか持っていて、純銀粘土で自分でも簡単なものも作る。金もプラチナも若干持ってはいるが、重量のあるものは財産をこれ見よがしに身につけるようで好きになれず、若い美しい肌に似合うものは若いうちにと、若向きのものをいくつか娘に譲り、2人とも使わないものはだいたい売ってしまった。

私は素材として銀の暖かい白さと柔らかさが好きで、海外旅行で一目惚れした小さいイヤリングかリングを記念に一つ買って帰る。磨くのが大変と知りつつ祖父のシガレットケースも手放せない。酸化して黒ずんだ銀細工を研磨した時に現れるあの甘い白い輝きが好きで、しばしば磨いている。白銀の世界や銀盤も好きだからもともと白い銀が好きなのだと思う。


これを身につけうる女性になりたいものだ
銀の良さを存分に発揮するピルケース

インドネシアに来たばかりの頃、私の胸に下がっているペンダントを見たジョグジャカルタの語学学校の校長が、ジョグジャには銀細工を手ほどきしてくれるショップがあると教えてくれたので、そこへ行きたいとホームステイ先のファザーに話したところ、ちょうど遊びに来ていた孫娘のフェリと私を車で連れて行ってくれた。コタ・グデというジョグジャカルタの南にその銀の町があった。正確には、いくつも銀細工の製品のショップが同じ地区に集中している。大小さまざまな銀細工に私は時間を忘れて見入って魅せられてしまった。その繊細さ、優美さ、そこにはロマン、そして受け継がれてきた文化があった。

かつて多くの王国に別れていた長い時代、王の権威を示すために作られたたくさんの手の込んだ装飾品がその技術を継承し続け、現在に至る。

銀細工の世界遺産ボロブドゥール寺院

その中で数軒が工房で観光客にベーシックなアクセサリー製作を指南してくれる。自分もシルバースミスになったつもりで手伝ってもらいながら極細のシルバーワイヤーをコイリングしてモチーフを作り用意された枠にはめていくと、初めてでもそこそこの作品が仕上がるようにしてくれる。プロの職人が作った夥しい数の精巧なアクセサリーを買い回るだけではなく、体験型の観光スポットでもある。

このコタ・グデの町で、私は1ミリに満たない細く薄い銀線を使ったフィリグリーという技術を初めて知った。それで、今回の旅では再びそこを訪ねた。フィリグリーは、紙を使用したクィリングアートと似ているが、フィリグリーは高さも低く、モチーフは糊を使わないでドーナツ型に平に巻く上、銀線はスチールやアルミのワイヤーよりはるかに柔らかいので、わずかな力加減で歪んでしまい、コイルは崩れやすい。最初は平にならず、同じ力で巻き取れず苦労した。生徒1人に1人のインストラクターがついてくれるが、先生ではなく実は職人のスーパーバイズのもとに指導する観光ガイドだ。外国人観光客が多いので語学の素養のある美人で若い女性が担当している。観光産業は客を楽しませる商売だ。本来一朝一夕で身につくはずのない繊細な技のところ、決まった時間内に出来上がらず客を返しては商品にならない。どんな不器用な素人生徒にも一点は完成させ、ワークショップ認定証を授与してあげたい一心のインストラクターは、有難くもむやみに巻くし、勝手に手伝う。もしじっくりやりたい人は「」ほとんどインストラクターが作って完成」よりも「自分でやる」ことを目標にしていると伝えた方がいい。

4ヶ月もこのワークショップに参加できる日を待ち焦がれた私も、手伝いは最低限にしてもらいたかったが、そうはいかなかった。娘と同い年の若い美しいインドネシア人のインストラクターが大変よくしてくれた。まずいなりに出来上がるよう作品も予め検討されている。彼女は大阪へ短期留学経験があり、名前はリナさんと言う。銀は素材が高価なので、クイリングをソロの生徒たちに教えたい話をすると、ペーパークラフトの世界も豊かで面白いと言って私のiPadでYouTubeをしきりにチェックし出した。そうまで客を立てなくても、と思うのだが、わたしが生徒にブンダ(bunda=インドネシア語でオカン)と呼ばれていると言うと、彼女も私をブンダと呼ぶ。どうやらシルバースミスというより観光客あしらいを学ぶ日のようだ。私も前のめりに技術を習得するのはやめて力を抜き、彼女が手伝うに任せた。そして出来上がったリングがこれだ。


初めてデザインした銀細工

手順は、銀線のクイリング→型にはめ込み→以降は師匠の手によって燃焼、精錬、補強、精錬、が繰り返され、最後に研磨、洗浄、サイズ合わせの順だ。


銀粉やアルカリパウダーでフィリグリーを安定させる


師匠が念入りに研磨すると下手もお見事に変貌する

この憧れのアトリエからリングを無事に持ち帰って嬉しいことは嬉しいが、本当の技術はそう易々と身につくものではないということを悟らされてちょっぴり悔しい気もした。私はも手工芸の教師の端くれ、今日は良いとこなしで帰されたので、次回こそは、と銀の町を後にした。


スナック付、認定証付、至れり尽くせりで3000円くらい

モノづくりは本当に手間で、makan waktu(時間を食う)だが、どこまでやってもまだ伸びしろを見せられて楽しい。インドネシアは手工芸のリソースの宝庫だ。銀細工以外にもバティック、イカット、ワヤン、木彫り、焼き物、、、、2年の派遣期間は私には短い。短すぎる。

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