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自宅が火災に巻き込まれて知った世界④

我が家のために集まった支援物資は段ボール約6箱分

ランドセルや子供たちの部屋にあった日用品などは扉が閉まっていたので煙に触れることなく無事だったのは不幸中の幸いだった。子ども部屋の扉を閉めるというのは、サチがたまに部屋に入って粗相をしてしまうことがあるのを防ぐために習慣化したことだったので、「サチが守ってくれたね」と話していた。

21日の13:00、△△公園には子ども会グループラインでの呼びかけによって大量の物資が集まっていた。
リクエストさせていただいた子どもたちの洋服やタオル以外にも、布団を譲ってくれる方がいたり、私や夫の洋服を詰めてくださった方もいた。

それらのたくさんの物資は、無事だった我が家の仏間にいったん移動されており、作品展から帰った私はその物資の量と温かな気持ちに驚いた。
うちの子どもたちが小学1年生と3年生の娘ということでお揃いの洋服やサイズの同じ体操服入れや上履き袋などもあって、すぐ明日からでも学校に行けるくらいのものが揃っていたのだ。被災した当日や翌日には、学校に行くなんて途方もないことのように感じていたのに…。
しかも洋服もまだまだ着られるキレイな状態のものがほとんどで、これから寒くなる冬に向けてのアウターもたくさんあって助かった。

金曜日の夕方に被災し、まさか月曜から登校できる状況になるとは思っておらず、感激の中で薄暗い部屋で一人でいただいた物資を二人の娘分に仕分けている途中で胸がいっぱいになってしまい作業ができなくなってしまった。
そこで「困ったときはすぐ連絡してね」という友人の言葉を額面通りに受け取り、甘えて連絡してしまった。

「ごめん、できないから助けて」
夫や学生時代からの友人のように深い付き合いでもなく、つい数か月前から一緒に役員をやってくれている3人に、その時の私は大きく支えられていた。
「行くよ!」という返事の後に本当に3人は駆け付けてくれて、2人の娘分の学校の準備をしてくれた。
体操服のセットと上履きのセットを二組作るだけだったのだけれど、それさえも当時の私はできなかったのだ。

義母のワンルームマンションで5人+猫1匹の生活

突然のサチとの別れや、環境の変化で子どもたちの心を心配していたが、大人たちの心配をよそに2人とも幸いとても元気で、たくさんいただいた洋服や髪飾りにウキウキしているようにも見えた。
友人や親戚がおもちゃやリカちゃん人形などを送ってきてくれたり、私たちがバタバタしてしまうときは義母がおおらかに相手をしてくれたり、そういった周りの人たちのサポートがあってこそのことだったと思う。
実際に2人に「明日学校に行く?」と日曜の夜に聞くと、「行く!この服着ていく!」と弾んだ声がした。

義母の家は2つ隣の学区となるため登校時は車で送迎することにしたが、なるべく子どもたちの日常は崩さない方がよいと思い、直接学校までワープして送迎するのではなく、家の近くの分団の集合場所まで送り、同じメンバーと一緒に歩いて学校まで登校することにした。
帰りも私が娘たちの帰宅時間に合わせて被災した家にいるようにして、そこから車で義母の家に戻ったり、習い事へ行くようにした。

被災した家と今生活する義母の家、二つの家ができたことで、子どもたちと話すときに混乱することがあったため、子どもたちが被災した家を『ヒサ』(ナとチがいた家)、義母のマンションを『ニマ』(娘たちの名前にある文字を合わせたもの)と呼びはじめたので、大人たちもそうした。

ヒサは庭が広いので、下校してきた子どもたちはヒサの庭で縄跳びをしたり、アウトドア用の椅子と机を出してきて宿題をしたりして過ごすこともあった。
近所の子どもたちも火災を目の当たりにしてショックを受けている子もいると聞いていたが、戻ってきた娘たちの姿を見つけて遊びに来てくれる子もいて嬉しかった。

また、娘たちのピアノの練習も、近所の子の家や児童館のピアノを借りて続けることができた。
「ヒサに帰るね!」と当たり前に被災した家を怖がらずに帰ってきてくれるのはありがたかったし、「ヒサに遊びに行くね!」と娘たちの友達にも呼び名が浸透していく様子も嬉しかった。

当時、私は飲食店で週に3~4日のパートをしていたのだが、火災に遭ってからは”落ち着くまで”という名目でお休みをもらっていた。
実際、ヒサの荷物の片づけ、保険関係のやり取り、子どもたちの送迎などで落ち着かなかったりイレギュラーな動きもあった上、気持ち的にも働くのは難しかった。
けれど、何も予定のない日は子供を分団の集合場所から送り届けた後は義母宅へ帰っても義母と2人きりでずっと過ごすことになり、いたたまれない時は図書館に行ったりカフェに行ったりして時間を潰していたが、そんな生活もお金がかかるので長くは続かず、火災から2週間後くらいから私はパートを再開した。
仕事をしていると普段の生活の中でのストレスからは解放され、私は少しずつ元気を取り戻していった。

ただ、ニマは6畳ほどのキッチン&リビングと寝室が磨りガラスで区切られただけの住まいで、そこで5人と猫一匹が過ごすにはプライバシーも何もなかったので、ニマでの暮らしが1か月、2か月と長くなればなるほど私はつらくなってしまっていた。
家事を私と義母のどちらが分担するかどうかについても悩ましかったり、生活費をどこまで出すべきか(避難という形で転がり込んできているので、普通の同居の相場で考えてよいものか)など、様々な事柄で嫁姑問題に発展するような事態もあり、そのことも私の頭を悩ませていた。

夫は実の母親との生活なので私とは感覚も違うし、実際に炊事をするのも私のテリトリーなので私の気持ちは理解してもらいにくく、私はストレスを抱える一方だった。
それでも火災から1か月が経つ頃からはリフォーム会社との打ち合わせで夜に2~3時間ほど外出することも頻繁にあったので、その際はやはり義母の存在はありがたく、とてもしんどいと言い出せるような状況ではなかった。

金銭的な面や子どもたちの相手をしてくれることが同居のメリットとなっていたのだが、次第に義母が子どもたちの子育てに口を出す頻度も増えたり、生活費問題にもさらに頭を悩まされることになり、ついに義母の元を出る決心をした。
いろいろと限界、ギリギリの選択だった。

被災した人用の住まいは行政では用意されていないという衝撃

ここで、私は一人で引っ越し先を探し出すのだが、被災して初めて知る現実に早々から打ちのめされてしまった。
それは、私の住んでいる地域(人口200万人以上が住む地方の政令指定都市)では、被災者向けの住宅というものは存在せず、被災した当日だけなら地域のコミュニティセンターの一室で過ごすことは可能だがそれ以降の住まいに対しての支援は何もないということ。
私たち家族は幸いにして義母のマンションが近くにあったため一時的な住まいは確保できたが、そうした場所がない人は全て自腹でホテルやマンスリーマンションなどを借りなくてはならないという状況であるということだ。
被災直後の混乱から義母との嫁姑問題に悩むまでこの現実をまったく知らずに来てしまったが、これは大きなショックだった。

今回は我が家を含めて数件だけの被災だったが、これが地域全体が被災する大震災などの場合はどうなるというのだろうか。地域のコミュニティセンターや体育館はあくまで一時的な避難先でしかならず、混沌の中でもお金と時間をかけて自力で部屋探しをしなければいけない。

行政をそこまで当てにしていたわけではないが、実際に知った現実は「こんなものか…」というのが正直なところだった。

こんなにも震災が多い国で(さらには私が住む地域は南海トラフの影響もあると長年言われ続けている)、空き家も団地も多い地域で、市議会議員たちは地域の小さな祭りにも顔を出しているのに、簡単に想定されるであろう被災した人や緊急時に困った人のためのサポートはほぼ皆無である現実。

私が世間知らずだっただけかもしれないが、自分が当事者になるまで知りもしなかった。

私が民間の賃貸物件を探し始めたのは2月の末。
火災に遭ってから3か月後のことだった。

食洗器の中
奥にあった勝手口が溶けてしまい、そこから一気に火が入った

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