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知が再び収斂するとき

先月書いたこちらのnoteの続き。

金曜の夜に突然何を思い立ったか、缶ビールを呑みながら書いた。その割には言いたいことちゃんと言ってる。今、様々な専門知が越境して知の再構成が進んでいる。柔軟性のある知のネットワークである教養が求められるのは必然なのかもしれないというお話。

この「再構成」についてもう少し考えてみた。

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先に法律の話題に寄り道する。昨日、シティライツ法律事務所の水野先生が次のようにツイートされているのを見かけた。

水野先生は、映画や音楽、アートなどを中心に「リーガルデザイン」を提唱される弁護士。主な著作として『法のデザイン』(フィルムアート社、2017年)があり、3年前に読んだときの知的興奮は今も忘れられない。

法律は社会のルールであり、社会の変化を映し出す鏡。そんな法律がどうあるべきかを前のめりに考えることは、未来を創造することでもある。

ぼくは法曹ではないけど仕事で何かと法律を扱うこともあって、法律に対する興味は大学の法学部在籍時代から高まる一方。特に最近の「法の越境」に関する話題はスリリングで本当に楽しい。

例えば、GAFAの台頭によって経済法(主に独占禁止法)と情報法(主に個人情報保護法)の境界線が一部で溶け始めている。また、雇用関係に限らない働き方の多様化によって労働法と民法、さらには知的財産法の交錯する場面が増えている。従来の法律が想定していなかった領域が露わになってきたという事実は、世界の混沌化を象徴するようで興味がやまない。

おそらくその文脈で水野先生が触れられていた「憲法」の重要性。憲法というとニュースでは憲法改正の話ばかりが目に付くけど、本来、憲法は国家の基本法として最も身近なもの。国家と国民の約束ごと。最近では、健康で文化的な最低限度の生活を営むための「生存権」(憲法25条)や、個人の自由を延長させる可能性を秘めた「幸福追求権」(憲法13条)を耳にする機会も増えたように感じる。

憲法の規定はどれも極めて抽象的だけど、その分、柔軟性がある。そのしなやかさが、どの法律よりも格上であることの証でもある。「違憲」という言葉があるように、どんな法律も憲法に反してはいけない。

専門知として、あらゆる分野で毛細血管のように網目を張り巡らしながら発達してきた法律。それが今、先行き不透明な世界において憲法に立ち返って考えることを求められている。前述した各種法律が越境ないし交錯する局面では、ほぼ必ずといっていいほど憲法の理念が姿を見せる。

基礎の基礎に立ち返ることの要請。それは、知のボーダーレス化が教養を求めるのとパラレルな関係にあるように見えてならない。

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きっとこれは法律に限った話ではない。

法学に限らず経済学も経営学も、いや、そんな社会科学の領域だけにおける変化にとどまらない。社会科学と自然科学の境界線すら危うい時代。そしてその境界線を補修しようする人文科学。アートや哲学といった歴史ある学問が俄かに日の目を見ているのは必然なのだろう。至るところで、ボーダーレス化に伴ってより抽象度の高い次元での議論が求められている。

ぼくは法律をちょっとかじっているだけだが、法律は本当に毛細血管のように細分化され、専門知として世界に網目をかけていると思っている。法律以外もそうなのだと思う。

その細分化や網目の拡大のペースを無視した動き——情報処理速度の飛躍的向上や目下社会を揺るがすパンデミックの猛威など——を受けて、知の網目が重なったり破けたりし始めた。結び目の綻びにようやく気付いたぼくらは、その結び目を繕いなおすよりも前に、まずは自分たちでほどいてみることにしたのだ。

知が収斂している感覚。収斂(しゅうれん)とは、分散して広まったものが、縮み、一つにまとまり直すこと。細やかに編まれたパッチワークの糸がほつれ、撚り戻されながら1本の太い縄になっていくように。

アートにおける古典主義とロマン主義や、政治経済における社会主義と資本主義。対局に坐する知は価値観の対立として、これまで幾度となく振れ幅の大きい往復運動を続けてきた。これからもずっとそうだろう。

では、知は往復運動だけではなく、分散と収斂も絶えず時代とともに繰り返すのだろうか。細分化した知の網目が最後に綻びを見せたとき。それはいつだったのか。そもそも知とは収斂しなおすものなのだろうか。

知の収斂が起きるほどの劇的な変化。これが時代の節目に重なるのだとしたら、日本の場合、やはり直近は終戦でその前は明治維新と考えるのが自然だろう。どちらも破壊があり、価値観を大きく変化させた。どちらも憲法の新設を伴っているのは、それが原因と結果のいずれであるかは定かではないが、何よりも象徴的であることは間違いない。

ただ、これらに比べて現代の変化はどこか異質な印象を受ける。すべてが延長線上での変化だからだろうか、上述したかつての節目ような法制や生活の断絶がない。なのに知が収斂する感覚がある。その違和感かもしれない。

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アート(この場合は「美意識」の方が正確かも)や哲学に関する議論は古代ギリシアの時代から連綿と続いている。人類の基礎の基礎をなす思想なんじゃないかと思わずにいられないし、多分、そうなのだろう。

基礎の基礎に立ち返れという時代の要請。知の再構成はいつか起きるのだろうけど、今起きているのは収斂ではないかと思っている。

収斂は初めて起きたのではなく、過去にもどこかで経験したことがあるもの。いつだったかはわからない。いずれの過去と照らし合わせるかは多くの人が試みている。もしかしたら明治維新でも終戦でもないのかもしれない。ただ、何千年も生きてきたのだからどこかにあったはず。

すべて、ボーダーレス化に伴ってより抽象度の高い次元での議論が求められているだけなのだ。抽象度が高いとは、それだけ基礎的で根幹をなすということ。基本を重視しろだなんて小学生の頃から言われているのに。

答えを見つけたわけじゃない。むしろ迷走している。でも憲法と哲学とアートの話がそれこそ収斂した感覚を覚えたのは確かだ。アート(art)の原義が「つなぎ合わせる」(to fit together)にある(*)のは偶然じゃないと確信した。

越境でもあり交錯でもある不思議なこの感覚は、水中に拡散したものが渦巻いた水流に乗って再び1カ所に集められていくのに似ている。

渦巻の行く先にはしなやかな知が佇んでいる。静かに。そして揺らがずに。

ぼくらは何もしなくてもそこに流れ着くだろう。でもそのときにはもう、水流は再び渦を巻き始めている気がするのだ。



(*)スージー・ワイ@芸術文化ジャーナルさんの「アート記事まとめ」のマガジン、および Online Etymology Dictionary による。

Photo by Fazly Shah on Unsplash

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