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言葉、アート、世界

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西武線の広告の謎を解く

今日乗った電車でヘッダー画像の広告を見かけた。いたって普通の広告だが、「西武線を」の「を」は果たして助詞として適切な使い方なのかどうかが気になった。 「乗る」が取る助詞は「に」が一般的である。「西武線に乗る」なら違和感がないと思い、試しにコーパスで調べてみたところ、概ねこの感覚で間違ってはいなさそうだった。「を」に続けたいのであれば、動詞を変えて「西武線を何度も使うと」みたいにした方が自然な気がする。 とはいえ、大手鉄道会社が大々的な広告でそんなあからさまに間違った文章を

「大きい主語」が奪うものと救うもの

いつからか、主語の大きさを意識する機会が増えました。「大きい主語」という言葉の意味自体はフラットですが、「主語が大きい」「大きい主語を使わないよう気をつける」など、どちらかといえばネガティブな要素を伴った文脈で使われる表現な気がします。 実際は個別具体的な話をしているにもかかわらず、「日本人は」「男性は」など、属性の問題であるかのように一括りにして一般化するケースが典型です。ほかにも「社会人なら常識だ」「世間が許さない」など、個人の見解をあたかも普遍的な規範のごとく語るケー

自動詞と他動詞の境目を揺れ動く

「破損する」は自動詞であり他動詞でもある。スマホは破損するし、スマホを破損することもできる。 自動詞のまま目的語を取り、使役動詞を付けて「スマホを破損させた」と書くこともできる。できるのだが、どうも違和感を覚える。使役ゆえ、わざと壊した印象を与えるからだ。誤って壊してしまったのであれば「スマホを破損した」の方がスマートだと思う。 「破損したスマホ」と連帯修飾する場合は両方に解釈できるが、どちらかというと自動詞に読める。「兄が破損したスマホ」と主語を添えれば他動詞になる。

言葉の糸を織る

自分らしい文章を書きたい。だから一丁前に構成や表現、言葉の一つひとつにこだわってみるのだが、所詮、選び方や組み立て方の違いでしかないと思うと、急に消沈しそうになる。 オリジナルは、既存の新しい組み合わせであると言われる。デジタルカメラは、カメラを搭載した携帯電話の普及によって瞬く間に市場から姿を消していった。携帯電話とカメラがこれほどのコラボレーションを生むとは、多くの人が予想をしていなかった。画期的な組み合わせこそ独創性。そう言われると、こんな自分でも何かできそうな気がし

枕草子は化石とともに

中学一年生のとき、クラスメイトと喧嘩をした。国語の授業後の休み時間、ぼくの蹴飛ばした机は彼にぶつかり、取っ組み合いが始まった。 小学校からの友人だった彼とは、あの頃にしたら長い付き合いだった。放課後もお互いの家に行き来したりとよく一緒に遊んでいて、同じサッカー部での活動も多かった。スポーツが得意で何かと目立つ反面、やんちゃで口が過ぎる彼は、クラスメイトから煙たがられることも少なくなかった。 その日の授業は枕草子が題材だった。春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明

孤独って、私が私と一緒にいられる時間なんだ。

一人の時間は好きだ。だからその過ごし方についてよく考えてしまう。珍しく日曜の夜、友人と飲み終えたこんな時間だから特に。 國分さんと千葉さんの本を読んで、記憶に刷り込まれる一節があった。 英語には、二つの孤独がある。孤独は、私が私自身と一緒にいられること。寂しさは、私自身と一緒にいるのに耐えられず、他者を探し求めてしまうこと。他者とのズレを受け入れられるとき、人は孤独になれる。周囲に合わせているかぎり、寂しさを覚え続ける。孤独を肯定できる生を生きるのは、簡単なようでとても難

すべてのカタチに敬意を

こないだ参加した研修で聞いた言葉が、ずっと頭の中をリフレインしている。リフレインなんて横文字使う必要ないのだが、今どうしても使いたい感じだった。ちなみに refrain(動詞:控える)とrefrain(名詞:旋律等の繰り返し)は、まったく語源の異なる同音異義語らしい。 閑話休題。リフレインしているのは、この言葉だ。 聞き覚えがあるような、ないような。ジョブズの名言の一つとして知られているようなので、どこかで耳にはしたことがあったのかもしれない。Mac や iPhone と

メモを手書きで取ったら、久しぶりに絵を描きたくなった

明日から梅雨入りすると聞いたので、電車に乗って出かけてきた。バッグの中には色鉛筆とスケッチブック。そう、絵を描いてきた。 金曜日、仕事の研修に参加してきた。テーマはデザイン思考。社外の人と意見交換しながら見えないゴールに向かっていく時間は、刺激的だった。デザイン思考についてはまだ修行中なのだが、ひとつ確かに感じているのは、自分はやはり言葉に頼りすぎているということだった。 小さい頃は絵を描くのが好きだった。働き始めてからは専ら文章のデザインばかり考えている。文章を書くのが

専門性が高いだなんて言うけれど

専門性ってなんだろうと考え続けている。 専門性とは、特定の分野の知識やスキルが高いこと。技術の発達により定型的な仕事がテクノロジーに取って変わられる中で、専門性の価値は俄かに高まっている。時をほぼ同じくして偏愛や推しといった言葉が脚光を浴びはじめたのも、個を尊重する風潮に加え、「深さ」に対するそうした価値観の移り変わりが影響しているように思う。 新卒入社した会社で、かれこれ十年以上ニッチな業務に長く携わっている。途中で職種は変わったし、同じ商品を違う角度から見ることでさな

言語の狭間を泳ぐ

仕事で英語を目にする機会が増えた。と言っても僅かなのだが、異言語に対する興味は学生時代から細く長く続いている。 こないだ本を読んでいたら、casual という単語に出会った。「気取らない、何気ない」などを意味する形容詞で、「カジュアルな服装」といった具合に日本語でも広く使われている。 ふと、これがcasualty と名詞になった途端「災害、犠牲者」になる理由が気になった。 調べてみたところ、どちらもラテン語のcasus が語源のようだった。意味は「落下」。そうか、落下は

ありがとうの暴力

小学3年生からサッカーをしていた。ユニフォームもあったし区の公式戦にも参加したが、放課後に仲良くサッカーをしていたと言えば間に合うくらいのチームだった。 同級生に、サッカーが上手くて負けん気の強い友人がいた。名を佐伯と言った。いわゆるガキ大将のようなやつだった。休み時間に廊下を引きずられたし、何度か取っ組み合いの喧嘩をしたこともあった。それでも仲は良くて、一緒に進学した中学の卒業までずっと一緒にサッカーをしていた。 都内の小学校とはいえど校庭は広い。ボールが遠くに転がって

解像度の再構築

『解像度を上げる』を読んだ。最近よく本屋の店頭に置かれていて、真っ黒なカバーが目を惹きつける。ビジネス書としても面白そうだなと思ったが、自分にとっては「解像度」がキーワードだった。 ぼくの考える「解像度」は、3年前に書いた下記のnoteにすべてが詰まっている。感情に焦点を当てた分、書籍より視野は限定されているし、その後も何度か考察を重ねてきたから、考え方が多少アップデートされたりもしている。それでも、この言葉に対する基本的なスタンスは変わっていない。 noteで色々な文章

洞察と盲目

学ぶほどに視野は広がり、そして狭窄する。焦点を絞れば周りの景色がぼやけていく。真に丁寧な観察は、近視であり遠視でもある。 『人新世の人間の条件』を読んだ。「地質学から歴史学まで、あらゆる学問の専門家の知見を総動員し、多くの分断を乗り越えて環境危機をファクトフルに考えるための一冊。」という紹介文に惹かれた。たまたま仕事で気候変動の話を扱う機会があったのもある。だが読み進めてしばらくして、生半可な気持ちで紐解いたのを後悔した。 はじめは、翻訳書だから難しいのだと思っていた。違

抽象度に託された意思

「そこまで詳しく伝える必要があるだろうか?」 仕事やプライベートで、こう立ち止まる瞬間は枚挙に暇がない。何も大げさな話ばかりではなく、メールやチャットに付け加えた一言を消したり、敢えてぼかした書き方に改めるなんてことは日々無意識のうちに行っている。 詳しさとは、情報の解像度だ。被写体が何であるかわかる程度のピンボケ写真と、臨場感あふれる鮮明な写真のどちらを渡すか。とりあえずモノトーンに加工し、彩りは後から伝えるか。そもそも、彩りは伝えないか。 ここで言う解像度は、抽象度