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専門性が高いだなんて言うけれど

専門性ってなんだろうと考え続けている。

専門性とは、特定の分野の知識やスキルが高いこと。技術の発達により定型的な仕事がテクノロジーに取って変わられる中で、専門性の価値は俄かに高まっている。時をほぼ同じくして偏愛や推しといった言葉が脚光を浴びはじめたのも、個を尊重する風潮に加え、「深さ」に対するそうした価値観の移り変わりが影響しているように思う。

新卒入社した会社で、かれこれ十年以上ニッチな業務に長く携わっている。途中で職種は変わったし、同じ商品を違う角度から見ることでさながら転職した気分も味わったりしたが、傍からは同じような仕事をずっとしているように見えるらしい。少なくともここ五年くらいは。

専門性が高い仕事、と言われることがある。

同じ部署に長くいると、他の人より知っていることが増える。この人なら知っているかもしれないと声を掛けられる。期待に応えなければと心の底でがっしり構えつつも、応えられたかどうか後で不安になることは少なくない。

専門性は、豊富な知識と質の高い経験に裏付けられる。モチベーションの波はありつつも、それらを身に付けたい一心で働いてきた。身に付いたかどうかは別として、二の足を踏む機会は以前に比べればだいぶ減った。

だが、自信は過信と紙一重である。自信がついたと思えばつまずき、自信だと思っていたものが過信だったのではないかと思えてくる。きっと、過信であったと自覚することを何度も繰り返す中で、なお自分を支えてくれる最後の上澄みみたいなものだけが、本当の自信なのだろう。

過信と気づかせてくれるのは、いつだって自分ではない誰かだった。すごい人に出会って力不足を感じたとき、離れたところから自分を見てくれる人に言葉をもらったとき。過信であるという自覚を通じてでしか自信は得られないのだとすれば、自信とは、他者との関わりの中でだけ生まれてくるものなのかもしれない。

目標の達成によって得られる自信もとい過信は、実力という名の慣れに伴って次第にそのハードルを上げていく。新入社員の頃は喜べていたはずの資料の作成はいつの間にか当たり前となり、当たり前はどんどん増えてくる。当たり前とは、期待値の高さでもある。自分で自分に対する期待値が上がっていると気付いたのなら、それは過信を疑う合図だ。

同じように、専門性もまた履き違えを起こしやすい。誰かが知らないことを知っていたりできないことをできたりするのは、経た年月の差でしかなかったりもする。扱える人が少ないのは懸けられている期待が小さいからかもしれないし、必ずしも実力の高さを意味するとは限らない。

ニッチな領域にちょっと通じているだけ。見せかけの実力。それを専門性と勘違いしているだけなのではないか。専門性が謳う知識の豊富さと経験の質は相対的なものでなく、絶対的なものではなかったか。だとしたら今自分が専門性と思っているそれは、本当にそう呼んでいいのだろうか。

いつまでたっても専門性について自信が持てないのは、そんな二重の確信の無さが原因だと思っている。専門性の高い仕事はいつになればできるようになるのか、そもそも専門性の高さとは何なのだろうかと自問自答を重ねてはぐるぐるしている。生きるのはつまずきの連続だから、そんな自信なんて永遠に得られないような気もしてくる。

最後に残る上澄みが自信なのだとしたら、どれくらい澄んでいればいいのだろう。ぼくのそれは、まだまだ濁ったままでいる。


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