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言葉の糸を織る

自分らしい文章を書きたい。だから一丁前に構成や表現、言葉の一つひとつにこだわってみるのだが、所詮、選び方や組み立て方の違いでしかないと思うと、急に消沈しそうになる。

オリジナルは、既存の新しい組み合わせであると言われる。デジタルカメラは、カメラを搭載した携帯電話の普及によって瞬く間に市場から姿を消していった。携帯電話とカメラがこれほどのコラボレーションを生むとは、多くの人が予想をしていなかった。画期的な組み合わせこそ独創性。そう言われると、こんな自分でも何かできそうな気がしてくる。

どれだけこだわって書いたところで、ほとんどが借り物なのだ。これまでの人生で触れたありとあらゆる言葉が糧となり、今の自分を作り上げている。

青空が「澄んで」見えたのも、身体が「鉛のように」重く感じたのも、ぼくではない。頬を流れた涙を「一筋の涙」と言いたくなるのは、誰かがそう言っていたからだ。言葉を「選ぶ」と表現するのは、他でもなく言葉が ready-made(既製品)だからである。誰かの言葉があるから、ぼくは言葉を紡ぐことができる。

言葉は選ぶものでしかないかといえば、そうとも限らない。たとえば、「ググる」。Googleで検索するという意味の動詞として定着し、何の違和感もなく使われている。かつて新語として脚光を浴びたであろう「サボる」も、今や確固たる地位を築いている。「タクる」は、どうだろうか。

不思議と、どれも名詞の転用なのが興味深い。Google、サボタージュ、タクシー。外来語を中心とした名詞に「る」「する」を付加すれば動詞が生まれる。日本語は、漢語に始まる外来語を幅広く受け止める懐深さを持ちつつも、純粋な動詞を育めるほどのしなやかさには欠けるとの示唆でもある。「彼は野球が上手だ」を “He is a good baseball player.” と言いたい名詞優位の英語と比べ、日本語は動詞優位で、どんな言葉も動詞へ移ろいやすかったりするのだろうか。

そんなふうに言葉への興味は尽きないから、誰も気に留めないところにもこっそりこだわってみたくなる。選び方ひとつ、組み立て方ひとつで届くものがどう変わるか、いつも不安なのに、とてもわくわくする。

自分らしい文章を書きたいなら自分だけの言葉を作ればいいのだが、それでは誰にも届かない。誰かと共有しているからこそ届くのであり、だから言葉なのだ。むしろ、遠く離れた誰かともこんなにたくさん共有できているものは、言葉以外に存在しない。いつでもどこでも、「そこにあるもの」の選び方ひとつ、組み立て方ひとつで想いの鮮やかさも考えの細やかさも自在に届けられるって、すごいことなのかもしれない。

たとえ借り物の言葉を使い、同じ表現や構成に行き着いたとしても、同じ文章は一つとして存在しない。今ここに置いた言葉には、今ここだから置きたかった理由がある。何度も選びなおし、組み立てなおして生まれた文章は、自分がこれまで出会ったたくさんの誰かの言葉を糸として、自分の感性だからこそ繋ぎ合わせられたタペストリーである。

織るのは、孤独で先が見えなかったりするけれど、誰かに支えられていると思えば、ぱっと明かりが灯るような気もする。この文章が、誰かにとっての糸になったらいいなと思った。


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