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孤独って、私が私と一緒にいられる時間なんだ。

一人の時間は好きだ。だからその過ごし方についてよく考えてしまう。珍しく日曜の夜、友人と飲み終えたこんな時間だから特に。

國分さんと千葉さんの本を読んで、記憶に刷り込まれる一節があった。

ハンナ・アレントが、孤独solitude寂しさlonelinessの違いについて書いているんですね。
 孤独とは何かというと、私が私自身と一緒にいられることだ、と。孤独の中で私は私自身と対話するのだとアレントはいう。それに対して寂しさは、私自身と一緒にいることに耐えられないために、他の人を探しに行ってしまう状態として定義されます。「誰かと一緒にいてください」という状態が寂しさなんですね。だから、人は孤独になったからといって必ずしも寂しくなるわけじゃない。

『言語が消滅する前に』(幻冬舎新書, 2021年)

英語には、二つの孤独がある。孤独solitudeは、私が私自身と一緒にいられること。寂しさlonelinessは、私自身と一緒にいるのに耐えられず、他者を探し求めてしまうこと。他者とのズレを受け入れられるとき、人は孤独になれる。周囲に合わせているかぎり、寂しさを覚え続ける。孤独を肯定できる生を生きるのは、簡単なようでとても難しい。

著者のお二人は、「仲間」とか「つながり」ばかりが強調される時代にあって、孤独の重要性が忘れられてしまっていると話している。勉強する、つまり没頭するとは、他者の目を気にせず何かに打ち込んで、他者とのズレを享受できることであると。だから、ものづくりをする人は孤独であると説かれていた。なるほどと思った。積極的な孤独solitudeを肯定するための、大切な言葉だと思った。

英語はsolitude とloneliness で区別がされている。日本語ではどうなのだろう。そう思って「孤独」の語源を調べてみたら、鰥寡孤独かんかこどくという、古代中国の律令制で使われていた言葉らしかった。国家による救済対象とみなされた家族構成のことで、「身寄りもなく寂しい様子」を表すのだそうだ。

この語源をみるに「孤独」はsolitudeとはだいぶ意味合いが異なる。古代中国に由来するのだから、純粋な日本語としての感覚でもないのだろう。「寂しさ」や「離れる」は和語だが、一人でいることの肯定感はない。「ぼっち」は尚更である。solitude に相対する日本語は無いのかもしれないと思うと、人は言葉によって思考を画されていると考えずにはいられない。

中世日本の頃から、人里離れて隠遁するのは肯定されていた。しかし、それは修行に専念するという仏教的な意味での肯定にすぎないのであって、solitude のような全面的肯定ではない。他者との関わりを避けられないムラ社会が基本だった社会的背景に関係しているのだろうか。わからない。わからないから、考え続けることができる。

書籍の続く一節に、教師("教える人"の意)は、コツコツとものづくりすることを通じて、孤独に生きることの模範を示す人だと書かれていた。その存在に影響されて、自分も孤独な営みを始める。そのとき教師は、そのまま写しとるようにインストールすべき他者ではなく、離れた存在としてただ存在するのだと。

教師は、孤独な時間がなければ何かを成し遂げることはできないと教えてくれる人。たしかに、何も教えてくれないが模範になる人はたくさんいる。逆に、手取り足取り教えてくる教師は、相手を信頼していないということになる。親切にするほど信頼感を失うパラドックス。これは、仕事でも私生活でも痛いほど通ずるものがある。

他人とのズレを享受できる、すなわち楽しめるとは、個性を持てることでもある。個性を煽る社会は個性が何であるか答えを持たないにもかかわらず、煽ることだけを目的に唆してくる。消費され続ける個性という幻想。そう、煩わしく思っていた。

多分、違うのだ。個性を持つとは、孤独とは、他者と関わらなければ生きていけない世界において、どんな状態よりも心確かにいられる時間である。煩わしく思う必要なんてなかった。つながりを絶つことが難しすぎる時代において、孤独は何よりも遠く、憧れる時間なのかもしれない。

誰かと一緒にいるのは楽しい。言葉を受け取り合えるのはうれしい。だからこそ、遠のき求めてしまうのだろう。こうして静かに、何も考えずに何かを考え、自分とだけ言葉を交わせる時間を。


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