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言語の狭間を泳ぐ

仕事で英語を目にする機会が増えた。と言っても僅かなのだが、異言語に対する興味は学生時代から細く長く続いている。

こないだ本を読んでいたら、casual という単語に出会った。「気取らない、何気ない」などを意味する形容詞で、「カジュアルな服装」といった具合に日本語でも広く使われている。

ふと、これがcasualty と名詞になった途端「災害、犠牲者」になる理由が気になった。

調べてみたところ、どちらもラテン語のcasus が語源のようだった。意味は「落下」。そうか、落下は偶然。たまたまでその場の思いつきだからcasual、偶然で予期せぬ出来事だからcasualty なのだと繋がった。日本語でも馴染み深いcase(事件、事例)も同じ語源らしく、なるほどと膝を打った。

以前、noteで出会った方からart が「芸術」であり「技術」でもあるのは、「繋ぎ合わせる」という原義に由来すると教えてもらったことがある。articulate が「明確にする」「はっきり伝える」なのは繋ぎ合わせて理路整然とするからだし、liberal artsが「教養」なのも、総合的で有機的な知を意味するからなのだろう。何気ない言葉が、確かな歴史を背負っているのを感じる。

熟語やイディオムにも同じことが言える。Back then は「あの頃」だが、Back there だと「さっき」になる。似た表現なのに、後者では時間的距離が近づいてくるのがおもしろい。

日本語も「先程」と「先日」では意味が異なる。there も「程」も一義的には空間的距離を表す言葉だ。時間の表現に空間の概念が使われるのは、古今東西同じなんだろうか。「今のところは大丈夫」の「ところ」は時間を、「今のところがわかりませんでした」の「ところ」は場所を表す。もう少しで遅刻するところだった」では状況になり、そこでは時間と空間が溶け合っている。

かつて言語学者ソシュールは、語源を辿るような歴史的考察を通時態、同時期の横比較による構造的考察を共時態と呼んだ。言葉へのアプローチは、文字どおり縦横無尽なのだと思う。

一見、文法という名のルールで整理され波風立たない言語の海も、狭間の海域は揺れ動いている。そこを泳ぐと見える景色はいつも小さな輝きに満ちていて、楽しい。

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