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ありがとうの暴力

小学3年生からサッカーをしていた。ユニフォームもあったし区の公式戦にも参加したが、放課後に仲良くサッカーをしていたと言えば間に合うくらいのチームだった。

同級生に、サッカーが上手くて負けん気の強い友人がいた。名を佐伯と言った。いわゆるガキ大将のようなやつだった。休み時間に廊下を引きずられたし、何度か取っ組み合いの喧嘩をしたこともあった。それでも仲は良くて、一緒に進学した中学の卒業までずっと一緒にサッカーをしていた。

都内の小学校とはいえど校庭は広い。ボールが遠くに転がっていったら、取りに行くのは面倒だ。練習中、佐伯の蹴ったボールがぼくの頭上を越えていったとき、手を振りながら彼はぼくに大きな声で叫んだのだった。「サンキュー!」と。

ぼくは別の練習中だったし、ボール取りに行ってやるよと返事をしたわけでもなかった。先んじて放たれた感謝にそんなのありかよと思いつつも、仕方ねえなあとだるそうにボールを取りに向かい、彼に蹴り返した。

今思えば「最後にボールを触ったやつが片づける」という根拠不明な小学生ルールを上回る理不尽だった。彼だからこそ許される立ち振る舞いに、この歳になって人柄を感じたりもするけれど。

そんな記憶が蘇ったのは、何年か前、街中で「いつもきれいに使っていただきありがとうございます」の一文を見かけたときだった。

トイレとか駅のホームとか、どこにでもある貼り紙だから普段は気にも留めていなかった。ふと彼を思い出し、感謝の笠を被った言葉はそこら中に溢れていると気づいた。「ご来店いただきありがとうございます」に混じってさり気なく声を掛けてくる「マイバッグのご持参にご協力いただきありがとうございます」とかもそうだ。いつか誰かが「あれは、ありがとうの暴力だよね」と言っていた。

英語にも "Thank you in advance." という表現がある。"in advance" は「あらかじめ」の意で、使う場面には気を遣う。おかまいなしに差し伸べられる感謝が些か押しつけがましいのは、どこの国でも同じなのかもしれない。

心理学では、指示や圧力ではなく感謝や期待で相手の行動を促すこうした方法をピグマリオン効果と呼ぶらしかった。「ありがたい」は「有難い」なのに、他人の心やさしい言動が貴重だから感謝するはずなのに、御礼が先に量産されるというのも本来おかしな話だ。街中で佐伯に感謝されたいわけじゃないが、あいつの「サンキュー!」の方がずっといい。


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